ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

民族主義に関する雑感

2010-03-07 23:16:51 | Weblog
 世界中にどれほどの民族が現存しているのか、詳しいことはわからない。しかし、たぶん僕などの想像をはるかに上回る数の民族が世界中には存在するのだろう。こんな曖昧な言い方をするのは、僕がこれから書こうとしているのは、文化人類学的な観点からの論究ではないからである。
 人は誰しも自分のルーツを、生きる糧にする存在である。つらい過去を経験している人の中には、己れの過去などすべて捨てたと宣言する人も中にはいる。しかし、その実、あらゆる人間は、過去、それも自分がいかにしてこの世界に生み出されてきたのか、ということに無関心にはなれないのである。この世界とは、民族のるつぼである、と言っても過言ではなかろう。そして、民族ごとに風俗・習慣が異なるのは必然である。そのような差異の中でも、最も折り合いのつかないものは宗教である。歴史的な事実として、宗教戦争ほど、根深い対立を闘いの終局後にまで残すものはない。宗教が、政治や経済を凌駕するかたちで、歴史のコアーになり得た時代は歴史的事実として、明らかに史実としての重荷を我々の思想史の中に残してきたのである。
 20世紀後期に雪崩をうったかのごとく、東西冷戦の終焉が唐突に訪れて以来、特に東側諸国における、共産主義的思想のもとに統制されていた民族主義という怪物が台頭してきたのである。云うまでなく、民族主義の底には、各々の民族の宗教的確信が、民族主義の存在理由の最も大きな根拠となった。ソ連のゴルバチョフ書記長時代に西側諸国と、あまりに急速な接近を政策として実行したがために、眠らされていた各民族の宗教が目を覚ましたのである。そして、宗教が、各民族主義の精神的支柱として、共産主義にとって換わったのである。世界はまたしても一つになり得るチャンスを逃し、宗教的思想という強固な礎のもとに、新たな世界史上の枠組みが出来あがったと云える。それを別の表現で云えば、新たな枠組みの国家主義の時代の到来であり、それが21世紀という不幸な、先の見えない時代性の本質ともなったのである。果たして民族主義的国家主義という枠組みが取り払われ、世界が異なる文化・文明という差異性を相互に理解した上で、より普遍的な地球主義(グロ-バライゼイションという国家主義を認めた上での経済論理ではない!)に行き着くのは、いったいこれからどれほどの時間が必要になるのだろうか?
 最後に身近な話題を採り上げてこのブログを終える。高校の授業料の無償化の対象から朝鮮学校を排除するという議論が大阪府はじめ、京都府でも起こっている。しかし、これまで朝鮮学校は日本が正式に認定している学校法人ではないという理由で、インターハイにも出場出来なかった時点から、それを可能にした経緯もある。国家主義という思想を認めるわけではない。その上で北朝鮮が国家として成立しているのか?という疑問を差し挟めば、どう控えめに考えても、国家の体をなしているとは到底言い難い。古代帝国でもあるまいし世襲制(ネポティズム)を国是としている。犯罪に関わる物品が日本に密輸されてもいる。国家間で未解決な問題もある。しかし、だ。朝鮮学校へ子どもを通わせている親たちは、日本に税金を払っているのである。いろいろな矛盾があろうと、やはり、この事実を抜きにして授業料無償化の対象からから朝鮮学校を排除するというのは、あまりに政治的な問題を意識し過ぎなのではないか。世襲制がまかり通っている国家の民族教育がまともなものだとは決して思えはしないが、それと授業料の無償化の問題とは別問題である。国家主義が席巻している時代だからこそ、日本は国家主義に毒された民族主義など凌駕して、若き人々に同じ給付をなすべきである。今日の観想とする。

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