ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○人間的な、あまりに人間的な、といきたいものです。

2010-03-30 23:42:28 | Weblog
○人間的な、あまりに人間的な、といきたいものです。

僕は何度も組織と人間に関する考察を書いてきました。無論、書くたびに思考のブレはありましたが、軸に当たる部分に関しては、一度もブレたことはありません。組織と云う場合は、人間が創るあらゆる集団のことです。それが企業であれ、また政治がらみであれ、あるいは宗教がらみであれ、個としての人間が創った組織が、組織そのものとして、人間が創った組織の中の、当の人間の思考形態のあり方を換える可能性もあり得ます。組織と云うと少し誤解があるかも知れません。もっと広く、社会と言い換えてもよいのですが、社会そのものが、人間の思考のあり方に確実に影響を与え、個としての人間の思考が、それ自体として屹立して在る、と云うことがそもそも不可能であるのかも知れません。

しかし、それにしても、どのような組織の中であれ、個としての人間には、それなりの抗いの意思と云うものが確実に存在するのも否定できない要素ではなかろうか、と思います。それこそが、人間の裡に眠っているのかも知れませんが、革命的意思と規定してもよいものです。

先日以来、ずいぶんと期待をかけていた青年が、少し前に、日本の中でも有名な新興宗教教団に入りました。何気ない会話の中で、教団に入ると言い出したのです。理由は法華経を学ぶということでしたから、それならば、別にその組織に属することなどないし、むしろ仏教思想としての法華経を学ぶ邪魔になり得るから、もう少し学びの方法論について、考えてみてはどうか?と言ったのです。ところが、どういうものか、彼はその教団に入ってしまい、そんなに時間が経ってはいないのに、今度は教団から脱会した、と言うのです。脱会したら、当の教団から執拗な嫌がらせを受けているのだ、と言う。それどころか、この教団は、政治家を国会に送り出しているし、またマスコミその他の分野に網の目のように現代社会に浸透している教団ゆえに、嫌がらせどころか、迫害すら受けていると言うわけです。じゃあ、闘えばよい、と僕などは単純に言います。当然でしょう。迫害を受けたらそれをはねのける。生きるために、です。もし、相手の力が強大であれば、敗北するかも知れないが、それは自分が立ちいたった思想ゆえの闘いなのだから、生が死に転じたとしても後悔はなかろうとも言いました。

ところが、情けないことに、闘えよ、と言うと、どうやって闘うのか?とくる。相手はこの間まで日本を動かしていた政府の一員でもあったから、相手の勢力が弱るのを待つと言う。それならいつ君は闘うのか?君が受けているという迫害からいつ自由になるのか?と問うたら、被害者の会を創って、相手方が政治勢力として無力になったら・・・までしか彼の声は聞こえては来ない。こういうことなら、もう何もやるな、と言いたい。むしろおとなしくその宗教教団に入っていればいいではないかと思う。君が好きで入ったのだろう、と問うと、それ自体が仕組まれていた、とのたまう。もうこうなると救いようもないわけである。
 世界を見よ。たった独りであっても、それくらいの組織ならぶっ潰せる。やり方次第では。ほんとうに彼が言うように、多くの被害者を出し、その教団が世の中の害毒以外の何ものでもないのであれば、独りでも闘えと僕は何度でも言いたい。世界の政治のありようから云えば、究極の姿はテロだろう。無差別テロはテロリズムとしては堕落した姿だ。独りでやるならトップをやるしかないではないか。僕がこのような極論を言うと、彼はもう精神的にバテバテだ。要するに何も出来んのである。それなら、いまのように逃げているしかないではないか。逃げるしか能のない人間は、ブツブツ言わずに、おとなしく逃げていればよいのである。実践の伴わない小理屈くらい、みっともないものはないからである。青年よ、己れの思想を再構築し、実践することを忘れるべからず。こんなことを書いているオレだって怖い。しかし、オレならもし、迫害を受けたら、怖くても闘う。それしか方法がなければ、戦術はいろいろあってよいが、闘い抜く。実践を抜きにした被害者の会とやらのお仲間は、所詮手に手をとって逃げる仲間でしかないだろうに。つまらねぇよ、君たちは。

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