あらかじめ僕自身の立場を明らかにした上でものを言うことにする。僕はそれがたとえ象徴天皇制であれ、天皇というものをこの国が上に戴く必要性などすでにない、と考えている人間である。喧しい右翼がかった憲法改憲論者たちにくみすることなど到底できないが、憲法を改正するのであれば、象徴天皇制という理念も含めて、天皇制そのものを日本国憲法から除去することだけに関しては大賛成である。幕末明治維新の時代ではない。尊王攘夷の思想を引きずる必要などすでになく、天皇を大義名分にして某かの社会改革を行う意義すら、現代はもはやない。特別の年金でも与えて早々に日本国憲法の中から立ち去ってもらいたいものである。このような考え方を明記した上で、以下のことを書き綴る。
新聞・雑誌という紙媒体もそうだが、よりインパクトが強いのは何と言ってもテレビ報道だろう。昨今テレビではしきりに、皇太子夫婦の娘の、学習院初等科への不登校報道がなされている。この種の報道に接すると、マスコミの報道姿勢に対する不信感は強まるばかりである。少なくともいまの状況下においては、天皇家の公式な仕事も含めて、私生活も含めたあらゆる責務を負っているのは宮内庁ではないか。まだ幼い娘のことだ、学校に行きたくなくなることだってあるのが普通なのである。それならば、大枚の税金を天皇家の維持に注ぎ込んでいるのだから、不登校である間は、優秀な家庭教師を何人もつけてゆっくりと勉強させながら、快復を待てばいいだけのことではないか。彼らには我々庶民には出来ないことが出来るのである。それなのに、一体、宮内庁というところは何をやっているのか?
マスコミ報道の皇室報道に関しては、ウンザリとさせられどおしである。相当に口の悪いコメンテイタ-でも皇室の人間に対しては「~さま」と上ずった声でものを言う。それでいて、年端もいかぬ少女の不登校を平気で飽きるほどに報道する。不登校に陥った子どもの心境がどれほど苦しいものなのかについての、マスコミの良識ある判断をはじめから放棄している。マスコミにとってはただ、ニュース性のある素材であれば、少女の心がどれほど傷つくかということなど、どうでもいいことなのだろう。そういえば、皇太子の嫁のうつ病に関する報道に関しても、どこまでも興味本位である。もっとそっとしておいてやるのがこの病気の治癒には不可欠な要素なのに。
長過ぎた昭和の終焉の際に、ヒロヒトの病状報告を連日新聞・雑誌・テレビ・ラジオというあらゆる報道媒体で垂れ流したのは記憶の底に眠っている。ヒロヒトの毎日の下血の量と、それにともなう輸血量が逐一報道されたのだった。その報道には、天皇ヒロヒトも、人間ヒロヒトも存在せず、ただ、死を前にして血を垂れ流す老人の姿、無意味な輸血、そして予定調和的に訪れたヒロヒトの死。ニュースの素材としてはよかったのだろうが、いったい、日本人とはどこに思想の根拠を置いているのかがまったく理解できない時期だった。
すでに天皇家の歴史的存在意義は終わっているのである。誰もがそれを言い出せないだけだろう。宮内庁は、仕事を失くしたくはないから、あくまで反対だろう。右翼思想家たちにとっては、ソフトで、当たり障りのない象徴的存在は利便性があるのだろう。しかし、物事を冷徹に見極めれば、日本こそ平和的共和制度としての緩やかな国家組織を創れる国ではなかろうか。もう、ええじゃあないか、天皇さんは。
京都カウンセリングルーム
新聞・雑誌という紙媒体もそうだが、よりインパクトが強いのは何と言ってもテレビ報道だろう。昨今テレビではしきりに、皇太子夫婦の娘の、学習院初等科への不登校報道がなされている。この種の報道に接すると、マスコミの報道姿勢に対する不信感は強まるばかりである。少なくともいまの状況下においては、天皇家の公式な仕事も含めて、私生活も含めたあらゆる責務を負っているのは宮内庁ではないか。まだ幼い娘のことだ、学校に行きたくなくなることだってあるのが普通なのである。それならば、大枚の税金を天皇家の維持に注ぎ込んでいるのだから、不登校である間は、優秀な家庭教師を何人もつけてゆっくりと勉強させながら、快復を待てばいいだけのことではないか。彼らには我々庶民には出来ないことが出来るのである。それなのに、一体、宮内庁というところは何をやっているのか?
マスコミ報道の皇室報道に関しては、ウンザリとさせられどおしである。相当に口の悪いコメンテイタ-でも皇室の人間に対しては「~さま」と上ずった声でものを言う。それでいて、年端もいかぬ少女の不登校を平気で飽きるほどに報道する。不登校に陥った子どもの心境がどれほど苦しいものなのかについての、マスコミの良識ある判断をはじめから放棄している。マスコミにとってはただ、ニュース性のある素材であれば、少女の心がどれほど傷つくかということなど、どうでもいいことなのだろう。そういえば、皇太子の嫁のうつ病に関する報道に関しても、どこまでも興味本位である。もっとそっとしておいてやるのがこの病気の治癒には不可欠な要素なのに。
長過ぎた昭和の終焉の際に、ヒロヒトの病状報告を連日新聞・雑誌・テレビ・ラジオというあらゆる報道媒体で垂れ流したのは記憶の底に眠っている。ヒロヒトの毎日の下血の量と、それにともなう輸血量が逐一報道されたのだった。その報道には、天皇ヒロヒトも、人間ヒロヒトも存在せず、ただ、死を前にして血を垂れ流す老人の姿、無意味な輸血、そして予定調和的に訪れたヒロヒトの死。ニュースの素材としてはよかったのだろうが、いったい、日本人とはどこに思想の根拠を置いているのかがまったく理解できない時期だった。
すでに天皇家の歴史的存在意義は終わっているのである。誰もがそれを言い出せないだけだろう。宮内庁は、仕事を失くしたくはないから、あくまで反対だろう。右翼思想家たちにとっては、ソフトで、当たり障りのない象徴的存在は利便性があるのだろう。しかし、物事を冷徹に見極めれば、日本こそ平和的共和制度としての緩やかな国家組織を創れる国ではなかろうか。もう、ええじゃあないか、天皇さんは。
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