芭蕉は「舌頭に千転せよ」と弟子たちに教えた。これは千回推敲せよと教えたに等しい。芭蕉の数々の名句はこのようにして生まれた。千回推敲してもなお未熟な作品しか書けていないと反省し続けたのが芭蕉の人生であり志であった。『奥の細道』は百枚足らずの紀行文だが、推敲に推敲を重ねたがついに決定稿が得られないまま芭蕉の寿命は尽きた。未定稿として残された『奥の細道』。「舌頭に千転せよ」の教えを文字通り実践した芭蕉の人生を象徴するにふさわしい作品である。
連衆(れんじゅう)。「俳席に一座して連句を作る仲間」のこと(『連句辞典』の定義)。「芭蕉は常に新しい連衆を求めて諸国を旅し、それによってマンネリズムを避けた」とある。
さて、ある日ある時ある場所に連衆が集って連句一巻を満尾するとする。連句の座は通常まず最初に挨拶の句を連衆が創作・享受することをもって開始する。
ハイデッガーはヘルダーリン講義の中で言葉としての挨拶について次のように述べている。
「神聖な挨拶とは、挨拶されているものに対して、そのものに当然帰せられるべき本質の高さを約する語りかけであり、かくしてこの挨拶されたものをその本質の高貴よりして承認すると共に、この承認を通して、その挨拶されたものをそのあるところのもので有らしめる、そのような語りかけである」
例。荒海や佐渡に横たふ天の川 芭蕉。これは佐渡に対する神聖な挨拶であろう。近景に海がある。視線を少し上げれば佐渡の島。さらに頭をもたげれば光の渦が目に飛び込む。視線を下降させてふたたび佐渡が目に入り、荒れた海が身近にある。そこでまた視線は上昇を続け、しかるのちにその視線の旅を総括するかの如く、荒海や、佐渡に横たふ、天の川と言葉を連ねる。これらの言葉たちは舌頭に千転されている。しかしその前に芭蕉の旅は脳中に千転していたのである。
行く春を近江の人と惜しみけり。この句の解釈については既に有名なエピソードとして語られている。例は他にも数多あるが芭蕉の挨拶の意義に関してはハイデッガーの規定がすべてあてはまることだけが分かれば足りる。
では、友情について、ハイデッガーはどのように語ったか?
「友情は、各個人の可能な限り大きな内的自立からのみ生じてくるのであり、その自立はもちろん我欲とはまったく別のものである。決断における個々人の隔絶にもかかわらず、このとき、ある隠された調和、隠されていることを本性とする調和が成就している。この調和は基本的につねにひとつの秘密である。(ハイデッガー『言葉の本質の問いとしての論理学』)。
この発言を踏まえて初めて理解できる挨拶がある。「狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉」。芭蕉の発句に付けた野水の脇句「たそやとばしるかさの山茶花」。この応答には、個々人の隔絶にもかかわらず、ある隠された調和が成就している。
旅の孤独。そしてつかの間の出会いの喜び。芭蕉においては言葉と心と行動は常に一致していた。それゆえ日本語を母語として生きるすべての人にとって芭蕉はいまなおなつかしい師の面影を宿す存在であり続けている。
★ 芭蕉から遠ざかれば遠ざかるほど芭蕉に近づく Juice=Juiceだって例外じゃない ★
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それは
希望かもしれないし
絶望かもしれません
もしも
もしも
もしも
そんな世界を生きて来た筈です。
きっと
また
もしも
ps
ダンボールさんへ
憂いと愛とは、紙一重なのかもしれません。
この国に、こころはまだまだ存在していて
神聖な挨拶もまだ、残っていました。
龍馬は、誰に、暗殺されたのでしょうか?
あ、ランポーか・・・
アルチュール・ランボーではなく?
世界は、謎に満ちていて、それを隠しながら
みんな生きています。
伝えたいこが、伝えきれなく人は死んでいく。
それが、人生です。
だから、歩く。