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好日40  (創作)ドストエフスキー・インタビュー

2012年02月27日 22時50分27秒 | 好日21~45

☆ ユーラシア出版ニュース

「神はある」(アリョーシャ・カラマーゾフ)。「神はない」(イワン・カラマーゾフ)。相反する思想を抱けるふたりは血をわけた兄弟であった。無神論国家が実現するのか(ありえない!)。神の国が誕生するのか(困難である)。ロシアの未来はいつに『カラマーゾフの兄弟』続編の完成にかかっている。

ユーラシア出版ニュース社では『カラマーゾフの兄弟』の著者フョードル・ドストエフスキー氏に対し続編の内容に関してのインタビューを行うこととした。結果は明日の「ユーラシア出版ニュース」一八八一年二月八日号に掲載される。ドストエフスキーの良き読者の皆様へ。明日が好き日になりますように。

☆ ドストエフスキー・インタビュー

ユーラシア出版ニュースの編集者Dは、本日ドストエフスキー氏宅を訪問し、インタビューを行った。最初の質問はこうであるー「カラマーゾフの兄弟続編の執筆を計画なさっているというのは本当ですか?」。ドスト氏の答えー「計画ではなく、続編はもう書き終わってますよ」。驚愕する私(D)であった。

ドスト氏は笑いながら続けたー「前篇を書く前に続編は書き終えています。作品を完成させることと書くこととは違う」。「書くことと違う?」「頭の中で精密にすべての場面、すべての議論は完成している。下書きもある。だが、作品は違う次元に存在する。書かれたものを語り直すのが作品を創る作業です」

「語り直す時、既に文字で書かれたあるいは頭の中にある物語は、一瞬毎に破壊される。新しい物語として再生する。カラマーゾフの前篇もそのようにして誕生したのです」。ドスト氏の言わんとすることが、私にもおぼろげながらも分るような気がした。「すでに書かれた物語を語りなおす作業はいつから?」

「二年ほど休養して精気を充填してから続編の語り直しを開始するつもりでいます。その間、いろんな調べものをしたり思考を深めたりという、純然たる労働も必要だ。しかし作品を語り直すという必死の作業に比べれば、それらは息抜きのレクレーションのようなものですよ」。ドスト氏の気迫に圧倒された。

作品の内容について聞いてみたー「内容については何も言えない。出たら読んで下さい。読めば内容は分るでしょう」。そう答えて、ドスト氏はにこやかに笑った。「読んでも私には何も分らないかもしれません。あなたの作品はあまりにも奥深い」。「そんなことはありません。続編は全力を尽くします」。

書斎の机の上に、プーシュキンの『ボリス・ゴドゥノフ』が置かれているのを私は発見した。栞が何枚もはさまれている。ドスト氏は私の様子を見てー「ボリス・ゴドゥノフ。皇帝暗殺の物語です。ロシアの悲劇はそこにあった。いまもある。忘れてはならない」。ドスト氏の謎のような言葉が耳朶を打った。

ドスト氏のインタビューは以上ですべてだ。創作に捧ぐべき文豪の貴重な時間を奪ったことは罪深いことであるのかもしれない。だが今回のインタビューを通じてドスト氏の次回作こそはロシアの叡智と神秘が込められた前代未聞の傑作であろうことが証明されたことを信じて疑わない。ドスト氏に感謝!


★ロシア帝国国歌


★☆★☆<補足的解説>★☆★☆

「好日」シリーズは私が連句同人誌『れぎおん』に連載しているエッセイです。年四回発行ですので、今回の「好日40 ドストエフスキー・インタビュー」はちょうど十年目の記念になる作品です。そこで今回はこのエッセイに多少の補足的解説を付け加えることとしました。

ドストエフスキー『カラーマーゾフの兄弟』第一巻・第二編・五「アーメン・アーメン」はまことに興味深い章です。大審問官の寓話を創作したのは無神論者であるイワン・カラマーゾフでした。このイワンのゾシマ長老の部屋における法学的・神学的な議論の中味が気になるところです。

イワンは教会と国家の関係について論文を書いているという設定になっています。そしてその論文の内容は、この小説の中でかならずしも正確に紹介されているとは言えないのですが、論文の著者であるイワン自身がその概要を説明しています。

「僕が弁駁を試みた僧侶のかたは、教会が国家の中に確然たる一定の地歩を占めていると断定しておられますが、僕は反対に、教会こそそれ自身の中に国家全体を包含すべきであって、国家の中に確かな一隅を占めるべきものではない、たとえ今は、何かの理由でそれが不可能であっても、その根本においては、キリスト教社会の今後の発展に対する直接かつ重要な目的とならねばならぬ、とこう論駁したのであります。」

イワンは、西欧の「近代自由主義」に明確に反対し、「政治と宗教の統一」という考えに立っている、と言えましょう。

『カラーマーゾフの兄弟』「アーメン・アーメン」の章は、中山省三郎の訳で青空文庫で読むことができます。前後関係を捨象して、この「五 アーメン・アーメン」の章だけ読んでも、充分理解可能です。『カラーマーゾフの兄弟』をお手持ちにない方のために、リンクを貼っておきます。 →http://www.aozora.gr.jp/cards/000363/files/42286_37300.html

イワンの論文に盛られている思想や大審問官の物語においては、教会や絶対者が異常なまでの光を放っています。これは考えるとどうもおかしいのです。紛れもなく彼は≪無神論者≫なのですから。

けれども彼の論文も物語も絶対者への帰依のこころなくしては決して作りえない内容です。なぜ無神論者たるイワンが絶対者への帰依のこころに通暁しているのか。それこそカラマーゾフという「謎」のすべてかもしれない。

この点に関して私はある仮説を想定できるような気がするのです。

物語が語られる時、その物語の内容と、物語が語られる構造とは、メビウスの環のように繋がっています。内容が構造を規定し、構造が内容を規定する。

かって私は、橋川文三によってヤマトタケルの命の国偲びの歌の注釈を聞きました(「日本浪曼派とは何か」参照)。一人の詩の解釈者が、12名の若者の前に立ち、いのちのまたけむ人たちに伝え残す歌の意味を解読したのでした。半存在という真実がその時開示された。

「大審問官」は、兄が弟に語り聞かした物語です。語る人は一人であり、聞く人も一人。その構造は、物語の内容と物語が解き明かされる構造と同型です。私には、「大審問官」は、イワンの変装したイメージに見えているし、物言わぬキリストはアリョーシャの魂がかたちを成したものに思える。その饒舌も沈黙も兄と弟の対話的関係以外の何物でもない。このような幻視が私には訪れました。

そして、ドストエフスキーが最晩年に行った「プーシュキン講演(1880年6月)」は、民族と絶対者との関係を根源的なレベルで明らかにした。しかも民衆的な言葉で表現した画期的なものでしょう。「絶対者の探求と政治」というテーマで極限のことが語られたのではないかと思います。

ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』前篇は、このプーシキン講演が行われた1880年末に完結し刊行されます。ドストエフスキーは「進化する作家」(埴谷)でした。プーシキン講演はすでに『カラマーゾフの兄弟』前篇の境地を凌駕する内容で満ち溢れています。このプーシキン講演の境地から振り返るならば、『カラマーゾフの兄弟』前篇も、すでにドストエフスキーの過去の境地=蝉の抜け殻のように見えてくるほどです。

『カラマーゾフの兄弟』続編の内容はどのようなものになったであろうか。私の想像力はかって誰も本気では夢みなかったであろうこの課題に向かって白熱しています。プーシキン講演はそんな私にとって、驚異的な奇跡の言葉の束のように押し寄せてくるのです。

正直「ウラー! カラマーゾフ」と感嘆の声を上げたくなるほどなのです。

政治の領域における「真理」の生き延び方、あるいは政治の領域における「民族」の生き延び方。それを私たちの国も探求しなければならない時期に達しています。そしてそれは誰か他の人に頼むわけにはいかない。われわれが(このわれわれは広くも狭くも取ることができます)なさねばならないということでしょう。

※3月15日の追記※
『カラーマーゾフの兄弟』第一巻・第二編・五「アーメン・アーメン」の章には、道化のミウーソフの口を借りてドストエフスキーが興味深い見解を述べている。そこの部分を引用してみる。
ーー「失礼ですが、皆さん、ひとつちょっとした逸話をお話しいたしましょう」突然ミウーソフが格別もったいぶった様子で、意味深長に語りだした。「あれは十二月革命のすぐ後のことですから、もう幾年か前の話ですが、ある時、僕はパリである一人の非常に権勢のある政治家のところへ、私交上の訪問をしましたところ、そこできわめて興味ある人物に出会いました。この人物は普通の探偵というより、大ぜいの政治探偵の部隊を指揮している人で、ですから、やはり一種の権勢家なんですね。(略)この人が言うことに、『われわれには無政府主義者だの、無神論者だの、革命家だのといった連中は、あまりたいして恐ろしくはありません。われわれはこの連中を絶えずつけ狙っていますから、彼らのやり口もわかりきっています。ところが、彼らの中に、ごく少数ではありますが、若干毛色の変わったやつがあります。それは神を信仰している立派なキリスト教徒で、しかもそれと同時に社会主義者なのです。こういう手合いこそわれわれが何より危険に思う、最も恐ろしい連中なのです! 社会主義のキリスト教徒は、社会主義の無神論者よりさらに恐ろしいものです』このことばはすでに、当時の僕を驚かしたものですが、今ここでお話を伺っているうちに、なぜか不意にそれを思い出しましたんで……」

この「神を信仰している立派なキリスト教徒で、しかもそれと同時に社会主義者」という存在こそ、『カラマーゾフの兄弟』続編でアリーシャに与えられる役どころでなくて何であろうか。ドストエフスキーは早くもこの場所で、『カラマーゾフの兄弟』続編の内容の予告編を展開していたのである。


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