ドストエフスキーは死刑の宣告を受けたけれども九死に一生の稀有な経験を得た。死刑執行の日、収監されたぺテロ・パウロ要塞から、ペテルブルグの兄ミハイル宛に出した手紙が残っている。
「今日十二月二十二日、われわれはセミョーノフスキー練兵場へ連れていかれました。そこでわれわれ全員に死刑の宣告が読み上げられ、十字架に接吻させられ、頭の上で剣が折られ、最後の身仕舞をさせられました」(『ドストエフスキー裁判』N・F・ベリチコフ編、中村健之介編訳。以下同書からの引用)。
死刑は中止され、ドストエフスキーには四年の流刑生活が待っていた。死刑が中止されたのは一八四九年の十二月二十二日。この日、ドストエフスキーは何を思ったのか。
「兄さん! ぼくは元気を失くしてもいませんし、落胆してもいません。生活はどこに行っても生活です。生きるということは、ぼくたち自身にあるので、外的なものにあるのではない。これからもぼくの許にはたくさんの人が来ることでしょう。人々の間にあって人間であること、いつまでも人間であり続けること、いかなる不幸にあっても落胆せず、くずおれないこと、――生きるとはそういうことであり、生の課題はそこにあるのです。それがわかりました。その考えはぼくの血となり肉となりました」。
この血となり肉となった考えは、次のような一文に結晶する。
「生きるということは賜物なのです。生は幸福なのです。一瞬一瞬が永遠の幸福にもなりうるのです」。
恐らく、ドストエフスキー文学の創造の根源は、この一文の中にある。この単純で力強い確信をドストエフスキーは生涯手離さなかった。この確信が、彼の多くの作品を生み出し、また彼の作品のキャラクターに生命力を付与してきたのである。
好日とは何か。この好日シリーズの原稿を書き続けながら、私はそのことを考えてきた。答えはまだ出ていないのだけれども、この「好日」という作品を完成させるためだけにも、やはり心身ともに爽快な一日(=好日)が必要であった。
ドストエフスキーの場合、死刑執行が中止され、生に帰還した日こそが好日(=生涯最良の日)であった。そこから生の無尽蔵の活力を引き出すことができる一日であるという意味において「好日」であった。ドストエフスキーの作品には、どれにも独特の魔力のようなものが潜んでいて、私たちをそこにひきずりこむのであるけれども、その秘密は、この「好日」に得た歓喜の絶頂にある。作品そのものの力によって、私たちはそこにひきずりこまれるのだ。
誰しも、それぞれ表情の違った「好日」の記憶を持っている。この記憶を蘇らせ、今日の一日に重ね合わせて、新たな好日を生きること。ドストエフスキーにもし学ぶべきことがあるとしたならば、この「好日」の教訓がそれであろう。一瞬一瞬が永遠の幸福にもなり得る秘術としての「好日」。ドストエフスキーのすべての作品は、我々をある絶対的な「好日」へと誘う。
ドストエフスキーは、生涯最良の日に得た確信を兄ミハイルに向かって語った。驚くべき内容をもった兄弟の対話。『カラマーゾフの兄弟』で再現されたものは、この好日の対話であった。『カラマーゾフの兄弟』とは、人類を不幸のどん底から歓喜の絶頂へと転回させようという大掛かりな実験だったのである。
★黒い瞳
この死刑場での極限的体験の中で見出した「一瞬一瞬が永遠の幸福にもなりうる」というモチーフは、『白痴』でムイシュキンの口を借りて語られていますが、さらに『カラマーゾフの兄弟』の終幕に於けるアレクセイ・カラマーゾフの最後の演説でも変奏されて提示されているように思います。
アリョーシャがテロリストとなる腹案もあったという書かれざる『カラマーゾフの兄弟』の第二部がどのような物語になったかを想像する際、このドストエフスキー自身が死刑場で体験した「一瞬一瞬が永遠の幸福にもなりうる」というモチーフは、大きな手掛かりになりそうですね。
12月17日、軍法会議でドストエフスキーら一味に銃殺刑の判決がくだった、ニコライ一世は即刻、減刑の命令を出した。死刑ではなく島流し、です。ここからさきは、茶番劇。。。目隠しされ、あたかも、銃殺されん、とするとき、皇帝から恩赦の知らせが届いた。。という。
ドストエフスキーはこの事実を死ぬまで知らなかったのでしょうか(おそらく、そのようだ)。まあこの茶番がなければ彼の文学作品(てんかん症も?)も生まれなかった、としたら、と考えると複雑な気分です。