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『歴史における保守と進歩』 第三章 解剖台の上の進歩と保守、あるいは、人間の発展はいかに可能か

2014年05月02日 05時30分52秒 | ★第四篇 歴史における保守と進歩

第三章 解剖台の上の進歩と保守、あるいは、人間の発展はいかに可能か

 我々は、福沢の進歩主義、柳田の保守主義の内容をこれまでにみてきた。前者が賛成するのは社会の改善であり、後者が反対するのは社会の改悪であった。前者の批判するものは伝統的宗教であり、後者の背定するものも伝統的宗教であった。前者の要請する心的態度は独立心であり、後者のそれは懐疑心である。しかし、このような違いにもかかわらず、両者が一致して強調するのは学問の必要性その意義である。両者の政治性は、その学問の中味を規定しつつまたこれに規定されつ、独自の一体観を形づくっている。両者の学問の内容は、両者の政治性を根底に於て支えている或る物に他ならない。それゆえ、その学問の比較は、彼らの政治的態度の差異を解明する上に於て、必至の作業とならざるを得ない。そこに於て初めて我々は、日本近代史の歴史的所産である福沢の進歩主義と柳田の保守主義の意義を語ることが出来るのである。
 両者の学問の比較に入る前の準備作業としてまず我々はウェーバーがその宗教社会学の緒論考の中で述べた二つの仮設を想い起こしたい。その第一の仮設。日本の近代化は何故成功したか。その理由は、当時のアジア諸国の指導者層のエートスと教養の違いを説明することによって可能となる。インドに於ては「救済哲学」が、中国に於ては「学者的教養」が、しかし日本に於ては武士的エートスに支えられた「世俗的教養」が主なものであり、この職業的戦士階層の世俗性が日本の近代化を推進させる主要な動機であった。その第二の仮設。世界宗教はいづれも文明の中心地域からでなく、文明の周辺地帯から発生した。全体としての文明を問題にするようなエートスは、文明の周辺地帯に住む人達の中から発生する。
 第一の仮設は福沢に関連を持ち、第二の仮設は柳田に関連を持つ。
 福沢の進歩主義が武士的エートスに支えられていることは、これを幾重にも証明できる。勝海舟を武士道精神に照らして批判した『瘠我慢の説』は、その最大の証明であり、『明治十年丁丑公論』及び『旧藩情』にも武士道精神はむしろ強調されている。福沢は武士道精神の在り方はこれを問題にしたけれども、武士道精神自体は否定したことはない。したがって、福沢に関しては、日本の近代化は武士的エートスに支えられた、というウェーバーの指摘は正しい。
 農政学者柳田國男は、南方熊楠の影響によって民俗学へ転換した。両者の出会いを媒介したのは明治末に強行された神社合併政策である。日本民俗学は、まず地方を研究する「地方(ぢかた)学」として出発した。「地方(ぢかた)学」とは、世界的視野を持つ農政学者新渡部稲造によって提唱された新しい学問であった。ところで、柳田は播州出身であり、南方は紀州の人間であった。民俗学も国学も全体としての日本固有の文化を探究するものであったが、宣長は伊勢の人であり、その正統的継承者伴信友は若狭の人である。これら四者は、日本文明の中心地であった幾内五ヶ国(山城・大和・河内・和泉・摂津)を、地続きでぐるりと取り囲む周辺国家郡の中からの出身者であった。周辺とは、中心の隣りという意味であり、中央に対する地方という意味である。国学が研究したのは世界ではなく地方(日本)であり、民俗学もまた日本民俗学であった。中心(幾内五ヶ国)の周辺(播州・紀州・伊勢・若狭)出身者が全体としての日本文明の伝統研究のためのエートスを最大限に保持していたのである。何処が周辺であるかの決定は、ウェーバーの指摘した世界宗教の場合、多分に主観的な面が含まれている。これに反し幾内とは歴史的に客観的な意義を持つ呼称であり、またその周辺とは視覚的な意味においても客観的である。ウェーバーの「周辺世界論」は、国学-民俗学の場合によって、微視的領域でその仮設が検証され、真理性を増したといえよう。
 日本の近代史に於て、福沢の進歩主義がまず現われ、次に柳田の保守主義が現われたのは何故であるか。近代化への決断が福沢の進歩主義であり、その近代化への懐疑が柳田の保守主義であった。後者は、前者なしに現われることはできない。それら一連の出来事は不可逆的な過程である。福沢の決断の中味を問うことは福沢の学問の中味を問うことであり、柳田の懐疑の中味を問うことは柳田の学問の中味を問うことでもある。福沢の決断・柳田の懐疑を生み出したものは、両者のエートスと時代背景であった。福沢の思想は、日本の近代を開き、柳田の思想は、日本の近代を閉じた。福沢以前とは、近世日本のことであり、柳田以後とは、現代日本のことである。福沢のエートスは武士的なものであり、柳田のそれは「どちらかといえば士大夫的=貴族的エートス」(橋川文三『柳田國男』)であった。
 武士の魂を持っていた福沢は、すべての日本人を、世界的知識人にまで高めようと努力した。貴族の魂をもっていた柳田は、すべての日本知識人を常民に還元するすべを教えた。福沢は、知性の進歩に期待し、柳田は倫理の保守に期待した。福沢は、知性というものが倫理に支えられていることを証明した(と思われる)、柳田は倫理が科学に支えられることを証明した(ように思われる)。知性を尊んだ福沢は、同時にモラルの人でもあった。モラルを尊んだ柳田は、同時に知性の人であった。彼らの知性とモラルは根源的であった。彼らの知性とモラルは、武士道精神と貴族精神に支えられていた。武士と貴族とは、日本の伝統を、そして今日の日本人の魂を根源的に支えている或る物の名称に他ならない。武士と貴族が支えあって、高い文化を維持してきたのが、日本という国の特質であった。したがって、福沢と柳田の絶対的差異は、日本という場において、絶対的同一性へ転換する可能性をはらんでいる。その絶対的同一性が証明される時、その場には、電撃が走り、さらにその電撃は、日本中を襲うであろう。
 福沢は、東洋と西洋の精神的混血児すなわち世界人となった最初の日本人であり、柳田は、世界人と化しつつある日本人にたった一人さからって逆にそしてついに原(プレ)日本人へと復帰していった。私の考えでは、このような徹底的な対立は世界史的な意義を持っている。なぜならばこの両極への分裂(世界文明への同化と民族固有の文化への復帰)は、今後全地球的規模でくり拡げられると予想されるからである。世界交通の発達が、その問題の顕在化を促す。福沢と柳田が、そうした世界史的課題にも応じられるような巨大な思想的生産性を発揮しえた背景は、もちろん人格の偉大さという面も無視しえぬが、主としてアジアで最初に近代化を達成しえた日本近代史の特殊事情による所が大きい。福沢は日本の伝統を批判しつつ進歩の理念を世界宗教のレベルにまで高め、柳田は保守の原理を科学にまで高めた。彼らの進歩の宗教と保守の科学は日本近代史の最良の遺産であり、さらに言うならば、両者の思想的対立の哲学的把握は、もしこれを現代日本人がおこなうならば、全世界の人々にも寄与するような文化的創造となりえよう。なぜならば、先程も述べた如く、福沢と柳田の対立は、今後世界で地球的規模で起こりうる問題の原型の意味を、あらかじめ含んでいるからである。
 課題の提起は、その解決である。課題の正しい提起は、課題の解決のための最初の条件である。課題の正しい提起は、福沢の全容と、柳田の全容を究めた後に、はじめてなされる。しかしながらそれはきわめて困難な作業である。両者はどちらも思想的巨人であり、学問的天才である。一人でさえもこれを把むに難かしく、二人になればもっと難しい。三才の童児にとってさえあきらかなこの理法に、あえてさからうような現代日本人は果して出現するだろうか?
 両者は、一日でも早く自分の学問が克服されるのを望んでいたようである。しかし両者は自分の思想が批判されることはけっしてこれを許さなかった。けれども、我々は、きっと何時の日か、この二人の巨人的思想家を、二人まとめて一撃のもとに打ち倒してしまわねばならない。まさに、ジークフリートの剣がなぎ払われ、アポロンの叡智が輝やいたようなその日こそ、福沢の高笑いが天空から鳴り響き、柳田翁の笑いが御空(みそら)からこぼれ落つるに違いない。そう、私は信じている。

 


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