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好日への助走① 「ほろ酔いの橋川文三」

2007年02月28日 01時58分59秒 | ★第三篇 好日 助走

 
 学生時代、『日本浪曼派批判序説』で有名な橋川文三氏のゼミに、私は所属していた。

 そのゼミ合宿の打ち上げ時の話である。

 ある学生が、隣の学生を指差して、「先生。こいつ最近失恋して元気ないんですよ。振られて一週間もたつのに、まだ落ち込んだままなんです。なさけない」と批判した。するとその言葉を受けて、すぐに誰かが、「そうだ、そうだ、だらしないぞ。おれは振られて二日で立ち直った」と、賛成意見を述べた。

 すぐに、「いや、おれは立ち直るのに一か月かかった。一週間立ち直れないのは、だらしなくない」と反論があった。また誰かが、「一か月も立ち直れないのは馬鹿だ。変態だ」と非難した。

 それから、失恋して一週間で立ち直れないのは、早いか遅いかどうかというテ-マで、学生達の賑やかな議論が続いた。

 橋川さんはほろ酔い加減のままで、学生達のたわいもない雑談に耳を傾けておられた。

 議論が一段落着いたところで、ある学生が橋川さんに、「先生も失恋したことありますか」と尋ねた。「あります」と橋川氏。「おっ!」という感じで、皆が橋川氏の方を注目した。その学生はさらに尋ねた。「失恋してどれぐらいの期間立ち直れませんでしたか」。

 橋川氏が「五年間」と答えると、みんな爆笑。

 学生達はいままで失恋して立ち直るのに、一週間が遅いか早いかという議論をしていたのである。そこでの五年という返答は、まるで次元が違った答えであって、自分達の常識とのあまりのギャップの激しさに学生達は笑ったのである。

 しかし、後に、私は気付いたのであった。失恋して五年も立ち直れない。そういう資質の持ち主でなければ、『日本浪曼派批判序説』のような本はけっして書くことはできない。

 激しい憧憬と挫折。文学を支え、そして産み出す秘密の核心に、ぼくたちはその時、気付くべきだったのだ。笑っている場合ではなかったのだ。日々顔を突き合わせ、議論を交わしながらも、ぼくたちは誰も橋川文三の正体に気付いていなかった。何も分かっていなかった。

 真実はいつも愚か者の衣装をまとう。そして虚偽はいつも衣装きらびやかである。だからぼくたちはすぐには真実を手に入れることができない。

 たとえ手に入れたくても、ずっと後から、ミネルバのふくろうのように、それはやってくるのだ。

★赤色エレジー★


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