このたびの平成二十三年三月十一日の東日本大震災と福島原発事故は、昭和二十年八月十五日の敗戦に続く、日本の歴史における、二度目の敗戦としてとらえるべきであろう。
かって、橋川文三は、昭和二十年八月十五日の敗戦を、啓示として捉えるべく、次のように述べたことがある。
「世界過程を、イエスの死の前と後に分つというような啓示的発想は、まさにその死の超越化によって成立したのである。
私は、日本の伝統において、そのようなイエスの死の意味に当たるものを、太平洋戦争とその敗北の事実に認められないか、と考える。イエスの死がたんに歴史的事実過程であるのではなく、同時に、超越的原理過程を意味したと同じ意味で、太平洋戦争は、たんに年表上の歴史過程ではなく、われわれにとっての啓示の過程として把握されるのではないか」 (橋川文三「戦争体験論の意味」)
私は、今回の大地震と原発事故は、太平洋戦争とその敗北に次ぐ、それに匹敵するような日本の大敗北ではなかろうか考える。太平洋戦争とその敗北はわれわれが生まれる前に起こったことなので、それが「われわれにとっての啓示の過程として把握される」といわれても実感としてはピンとこない部分は残る。しかし今回の大震災と原発事故は、我々の現実の体験である。ただ実感としては分かってもこの事態を頭でどう理解すればいいかは分かりにくい。
そこで、橋川文三の思考の助けを借りて、「太平洋戦争の敗北」と「震災と原発による敗北」を等価と置いてみる。そうすると橋川文三の「戦争体験論の意味」を、我々はこのように書き換えることができるのである。
「世界過程を、イエスの死の前と後に分つというような啓示的発想は、まさにその死の超越化によって成立したのである。
われわれは、日本の伝統において、そのようなイエスの死の意味に当たるものを、今回の東日本大震災と福島原発事故の大敗北の事実に認められないか、と考える。イエスの死がたんに歴史的事実過程であるのではなく、同時に、超越的原理過程を意味したと同じ意味で、今回の大震災と原発事故による敗北は、たんに年表上の歴史過程ではなく、われわれにとっての啓示の過程として把握されるのではないか」
今現にわれわれが生きている状況を日本史の実存として捉えること、それこそ求められている態度であり、「啓示としての三・一一」という視座の獲得こそ、その内実であらねばならない。
放射能によって汚染された東北の郷土はいつ再生するのか。さらに同様の破局がこの日本の国土でもっと大きな規模でもたらされることはないと言い切れるのか。立ちはだかる壁はきわめて大きい。政界・官界・財界、そして更には学界・マスメディアまで、この国の主要組織は大小無数の原子力マネーによって既に完璧に汚染され尽くしてしまっているからだ。その事実を直視しよう。この国が立ち直るのはもはや不可能ではあるまいか。
大地震に続く大津波によって失われた一万五千名を越える死者の魂は英霊となってこの国の再建を見守っている、そう信じる根拠はある。これが、我々の唯一の希望であり、心の支えである。放射能に汚染された日本が、我々に決断を迫っているのだ。
★日本の一回目の敗戦=終戦の詔勅(玉音放送)
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