【霊告月記】第三十四回 今年の夏は、徂徠学。景気づけに花火と中川家
夏は楽しい。大学や高校の夏休みの頃の記憶がまるで昨日のことのように鮮明に蘇ってくる。命の根源の記憶が再生されて身内に溢れ出す。夏はいい!
今夏の私の目標は徂徠学への挑戦だ。導いてくれるのは、まだ読んでないので正確に言うなら導いてくれそうなのは、子安宣邦氏の『徂徠学講義 『弁名』を読む』という書だ。この本にはこんなことが書いてある。著者の言葉を一部引用する。
『弁名』はその重要性にもかかわらず,ほとんど読まれてこなかった。丸山眞男以来,徂徠を論じるものは多い。しかし『弁名』によって論じるものは希れというより,ほとんどないといっていい。それは『弁名』というテキストがわれわれの簡単な接近を阻んでいるからである。その理由の第一は徂徠のテキストの難解さにある。だがその難解さの原因が,もっぱら漢文テキストにあるということなら,すでにその書き下し文があり,現代語訳があり,注釈もある今日,『弁名』テキストへの接近は容易であるはずである。だが『弁名』本文が書き下されたから,あるいは現代語訳されたから分かるわけではないのである。大体徂徠テキストを現代語訳し,解説する当の漢学者たちに徂徠が分かっていたわけではないのだから。彼らが分かっていないのは徂徠学の問題構成であり,言説構成のあり方である。
徂徠学とは何かの問いに,私はあらためて次のように答えたい。それは日本思想史上はじめての人間社会の全体への視点をもって構成された社会哲学の儒学的展開であると。 (子安宣邦『徂徠学講義 『弁名』を読む』岩波書店 2008年)
子安思想史の最高峰の作品『徂徠学講義 『弁名』を読む』を繙くことによって、この夏、私は大いなる飛躍をかちとりたいと思っている。近況報告でした。
※参考※⇒ 子安宣邦のブログ -思想史の仕事場からのメッセージ-
】 霊告 【 ここ( 『弁明』緒言ー引用者注 )にあるのは人間の概念的言語の成立をめぐる日本思想史上最初で最後ともいえる反省的な批判的分析力をもった文章である。 子安 宣邦
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