【霊告月記】第三十三回 カゲロウを巡る旅
カゲロウというあるひとつの生物を巡って連想ゲームのように記事を作ってみた。最初に「 I was born 」と題する吉野弘の詩。次に今西錦司の講演の一節。最後にカゲロウの羽化の一瞬を捉えた動画。この二つの文章と一つの動画の引用でもって私のカゲロウを巡る旅の日記とする。
カゲロウは命の儚さ切なさを想起させる絶好のメタファーであり、そのことは日本人の集合的無意識に確固として書き込まれている。吉野弘の「I was born」は生れて死にいく生物の定めを美しい日本語で捕えた傑作である。おそらく今西錦司が生物学のフィールドワークの対象としてカゲロウを選んだ動機にもこのような日本人の無意識の根源に降り立って行こうとする決意があったのではないかと想像される。しかし逆にカゲロウを通して今西が発見したものは生命の永遠性無限性雄大性そのものであった。35億年の生物進化のヴィジョンを今西はカゲロウの棲み分けという事実の発見によって基礎付けたのである。カゲロウが教えてくれたのだ、地球に住まう生物が棲み分けという事実を通して生命と環境を調和させているという根源的なその真理を。水生昆虫であるカゲロウは羽化し空を飛び回って充実した生を楽しみやがて多くの子孫を生んで速やかに退場する。カゲロウは35億年そのような生と死を繰り返してきたのだ。カゲロウがどうして儚い命を象徴するだけの存在でありえようか。事実はその反対である。人間もまた生物35億年の進化の歴史を背負ってこの世に存在する。35億年+100年が人に与えられた時間、35憶年+数日がカゲロウの生きる時間。35億年から勘定すれば100年と数日は加えられた微細な誤差に過ぎない。カゲロウよ、美しいその生を永遠に生きよ。
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I was born
吉野 弘
確か 英語を習い始めて間もない頃だ。
或る夏の宵。父と一緒に寺の境内を歩いてゆくと 青い夕靄の奥から浮き出るように 白い女がこちらへやっ てくる。物憂げに ゆっくりと。
女は身重らしかった。父に気兼ねをしながらも僕は女の腹から眼を離さなかった。頭を下にした胎児の 柔軟なうごめきを 腹のあたりに連想し それがやがて 世に生まれ出ることの不思議に打たれていた。
女はゆき過ぎた。
少年の思いは飛躍しやすい。 その時 僕は<生まれる>ということが まさしく<受身>である訳を ふと諒解した。僕は興奮して父に話しかけた。
----やっぱり I was born なんだね----
父は怪訝そうに僕の顔をのぞきこんだ。僕は繰り返した。
---- I was born さ。受身形だよ。正しく言うと人間は
生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね----
その時 どんな驚きで 父は息子の言葉を聞いたか。 僕の表情が単に無邪気として父の顔にうつり得たか。そ れを察するには 僕はまだ余りに幼なかった。僕にとってこの事は文法上の単純な発見に過ぎなかったのだから。
父は無言で暫く歩いた後 思いがけない話をした。
----蜉蝣という虫はね。生まれてから二、三日で死ぬんだそうだが それなら一体 何の為に世の中へ出てくるのかと そんな事がひどく気になった頃があってね----
僕は父を見た。父は続けた。
----友人にその話をしたら 或日 これが蜉蝣の雌だといって拡大鏡で見せてくれた。説明によると 口は全く退化して食物を摂るに適しない。胃の腑を開いても 入っているのは空気ばかり。見ると その通りなんだ。ところが 卵だけは腹の中にぎっしり充満していて ほっそりした胸の方にまで及んでいる。それはまるで 目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみが 咽喉もとまで こみあげているように見えるのだ。淋しい 光りの粒々だったね。私が友人の方を振り向いて<卵>というと 彼も肯いて答えた。<せつなげだね>。そんなことがあってから間もなくのことだったんだよ。お母さんがお前を生み落としてすぐに死なれたのは----。
父の話のそれからあとは もう覚えていない。ただひとつ痛みのように切なく 僕の脳裡に灼きついたものがあった。
----ほっそりした母の 胸の方まで 息苦しくふさいで いた白い僕の肉体----。
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今西錦司の講演より
私は若いころカゲロウの幼虫を調べておった。伝説では毎日、加茂川の石を全部ひっくり返してたというが、そういうわけにはまいりません、石がたくさんありすぎまして 。しかしそのときに棲みわけということを発見した。そういうことがあるかもしらんという予想なんか全然なしに、バ ッタリ事実とぶつかったんです。その事実は前から石をひっくり返してるときにわかっていたはずであるにもかかわらず、ある日、突然にそれが見つかる。その辺に、発見というもののおもしろみがあるんです。
そんならこれは何か。 棲みわけには相違ないのですけれども、なにが棲みわけているのかという問題ですね。これを私はーつの社会現象と見たんです。これは個体の問題でなくて 「種社会」 の棲みわけである。種社会という言葉をそれ以後使うことになるのですが、棲みわけとは種社会の自己限定である、そういうふうにこの現象を解読したんです。
ところが種社会というのは、生物の世界におけるもっとも基本的な構成単位である。けれどもそのもうーつ下に個体という構成単位があって、種社会はそれに属する個体によって構成されている。一方で、この種社会というものは、もうーつ上の生物全体社会からみたら、 一つの部分社会であるにすぎない。そういう種社会がたくさん寄り集まりまして、生物全体社会というーつのシステムをつくっているのであります。
(今西錦司「進化論も進化する」)
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★水生昆虫カゲロウ羽化~Aquatic insect Emergence
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