【霊告月記】第四回 一度目は悲劇として、二度目は茶番として
マルクスとエンゲルスの盟友関係には特別なものがある。そのことを実証するような資料を発見したので紹介しておく。エンゲルスからマルクスへの手紙、その抜粋である。ナポレオンの甥ルイ・ボナパルトによるブルメール十八日のクーデター成功の直後に盟友マルクスに書き送ったものである。
132 エンゲルスからマルクス(在ロンドン)へ
フランスの事態は最高に完成された喜劇の段階にはいった。この平和のただなかで、不満を感じている兵士たちとともに、世界じゅうでいちばんくだらい人間によって、これまでに判断できるかぎりではなんの抵抗もなしに遂行されたブリュメール十八日の茶番、これ以上に愉快なものを想像することができようか。
われわれが先日見たところでは、人民などは全然問題にされていなくて、まるで老ヘーゲルが墓のなかから世界精神として歴史を導きながら最大の几帳面さですべてのものを二度出現させたかのようだ。一度目は大悲劇としてして、二度目はあさましい茶番として。すなわちダントンのかわりにはコシュディエールが、ロベスピエールのかわりにはルイ・ブランが、サン-ジェストのかわりにはバルテルミが、カルノのかわりにはフロコンが、そして短躯の下士官とその食卓仲間の将軍連とのかわりには手あたりしだいに集めた借金中尉たちを引き連れた奇形児が登場するのだ。こうしてわれわれはすでにブリュメール十八日を目前に見ているわけだ。
君からの便りを待ちつつ。 君の F・E
[マンチェスター]一八五一年十二月三日
(マルクス・エンゲルス全集第27巻 325頁 大月書店 1971年)
歴史に於ける反復という興味深いテーマに関しての問題提起である。そしてマルクスはエンゲルスから個人的に差し出された言葉をそのまま反復(!)することによって、反復というテーマをいわば普遍的な歴史的現象として周知のもの足らしめたのである。これはまことにみごとな連携プレーと言えよう。
ヘーゲルはどこかでのべている、すべての世界史的な大事件や大人物はいわば二度あらわれるものだ、と。一度目は悲劇として、二度目は茶番(ファルス)として、と、かれはつけくわえるのをわすれたのだ。ダントンのかわりにコーシエディール、ロベスピエールのかわりにルイ・ブラン、一七九三年から一七九五年までの山岳党のかわりに一九四八年から一八五一年までの山岳党、叔父のかわりに甥。そして「ブリュメール十八日」の再販が出される情勢のもとでこれとおなじ漫画が〔えがかかれる〕!
(マルクス著『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』岩波文庫)
この反復という歴史現象に注目したもう一人の人物が橋川文三である。「橋川文三とマルクス」というエッセーにその内容を記載したので詳細は省くが、日本浪曼派はドイツロマン派の悪しき反復であった。カール・シュミットの『政治的ロマン主義』を批判的に読み込むことによって、橋川文三は『日本浪曼派批判序説』を書き上げたのである。
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★一度目は懐かしく、二度目は新しい。そんな曲が聴きたい。
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