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【霊告月記】第二回 時には母のない子のように
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今日は寺山修司の霊告を聴く日である。寺山が作詞しカルメン・マキが歌った「時には母のない子のように」。この曲を最初にかけたその理由は僕が母のない子になったからだ。寺山修司の母を乞う心境に共感しシンクロしている。そのような状況をこの曲を流すことによって現出したかった。つい先日10月28日(水)午後11時10分わが母川端かね子は永眠した。母を偲ぶ四十九日の法事は今月12日(土)に僕も帰省し故郷の実家でとり行われる。父と母については二度書いたことがある。その文章へのリンクを貼り母の写真を掲げておく。お母さん、お世話になりました。ありがとうございました。これ以上言葉は費やすまい。嗚呼!
父と母の物語:言霊降臨1
父と母の物語:言霊降臨2
ありし日のわが母の肖像
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【霊告月記】第二回 附録
★平泉澄の皇国史観の核心としての楠正成の崇敬★
平泉澄(1895-1984)の『楠公 その悲劇と余香』(鹿島研究所出版会 1973年)を読んだ。この著書の要旨を核心部分の引用によって再構成してみた。この要旨と「櫻井の駅」の歌を併せ聴くことによって平泉澄の皇国史観の核心が直観的に理解できるよう工夫してみた。念のため申し添えておくが私は必ずしも平泉澄の皇国史観に賛同しているわけではない。ただ楠正成崇敬の心には心から共感している。
■闇斎学派について
明治維新の原動力の有力なる一つは、山崎闇斎の学統でありますが、闇斎の孫弟子に当る若林強斎は、おのれの書斎に名づけて望楠軒といひ、その理想とする所が楠公に在る事を明確にしてゐます。
(平泉澄『楠公 その悲劇と余香』p84)
■楠正成尊敬の発端
江戸時代になって学問が盛になるにつれ、次第に史実の詮索も行届き、建武中興前後の事情も明かになり、正成に対する尊敬が盛になって来ますが、その風潮を決定的ならしめたものは、水戸の徳川光圀が、湊川の遺蹟に、正成の墓碑を立てた事でありました。時は元禄五年、石碑の表面には、光圀自身、「嗚呼忠臣楠子之墓」の八字を揮毫し、そして裏面には先に朱舜水の作った「楠公賛」を採って、之を刻したのであります。(同、p78)
■朱舜水について
朱舜水は明の遺臣で、明の国が清によって滅ぼされた時、清に仕えるを潔しとせず、我が国に亡命した人物で、その高潔なる人格と深遠なる学識の為に、光圀の尊敬と信頼を得て、水戸へ招請せられ、天和二年四月、八十三歳で亡くなりました。(同、p78)
朱舜水は、清の為に滅ぼされた明の遺臣でありますが、自分の生まれた土地には、革命しきりに起って、国家の生命まことに短く、之に反して日本に於いては、建国以来、万世一系の天子を仰いでゐるのを見て、感慨無量であったでせう。(同、p79)
■平泉澄の皇国史観の核心としての楠正成崇拝
もし楠公の精神が理解せられず、却って足利をよしとするか、よしとしないまでも容認するか、しますと、それは大変なことになるのであります。
足利は、おのれの名誉、権益を追求するに急であって、その為には、他にどのやうな迷惑を与えても構はなかったのであります。兄の高氏と、弟の直義とは、やがて利害が衝突して、互いに激しい争を演じ、そして結局直義は、高氏の為に殺されます。それを始めとして、父子兄弟一族の間に、次々と争いが起ります。足利の家来も之を見習って、或は主家にそむき、或は相互に争ひます。「自分さへよければ」と云う私利私欲が、つもりつもって、やがて応仁の大乱となり、そのまま百年の戦国時代に入るのであります。君臣父子夫婦の間の道徳が悉く乱れて了っては、世の中は乱れ、国は衰亡の道をたどる外はないのであります。孟子の初めに説いてあります所の、上下すべておのれの利益を追求するならば、「奪はずんばあかざる」、つまり「略奪しなければ満足しない」やうになるであろうとの誡戒(いましめ)がしみじみと痛感せられるではありませんか。
日本人は必ず勇気を取戻し、理非を分ち、正邪を裁くに至るでありませう。日本国はその時、正大の気に充ちた道義の国としての威厳を回復するでありませう。それに先んじて之を導くものは楠公の精神であり、その成就したる暁に、全国民の心に光かがやくものは、忠孝両全の教でありませう。(同、p95)
■落合直文について
落合直文は、すぐれたる国文学者である共に、純情の歌人であって、その作に、
一つもて 君を祝はむ 一つもて
親を祝はむ ふたもとある松
父君よ 今朝はいかにと 手をつきて
問ふ子を見れば 死なれざりけり
などがあり、いかにも素直に日本の心が現れてゐますが、そういふ人柄であったればこそ、櫻井の駅の名歌が出来たのでもあり、同時に櫻井の駅の、あの悲しく美しい史実があったればこそ、その感化影響を受けて、直文のやうな人柄が養はれたのでもありませう。(同、p67)
■大楠公の歌
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★ダンボールの部屋へようこそ!!!
中央大学創立百周年記念長谷川如是閑賞授賞論文
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