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【連句】③連句的精神とは何か?

2012年04月23日 10時03分00秒 | 【連句】①~⑤

連句的精神とは何か


▽質問 あり: ダンボールネットってなんだ?
▼その答え: 連句的精神に立脚した文芸ネットの建設を目指す者のあつまりです。
▽また疑問: それでは、連句的精神ってどういうことなんだろう?
▼また答え: ふむ、エッセイ 【連句的精神とは何か】 を用意しました。疑問氷解?


【連句】③連句的精神とは何か?

 
河合隼雄の『カウンセリング入門』を読んだが、なかなか面白かった。カウンセリングの基本とは何か。この本の中で河合隼雄は次のように述べている。相談を受けたカンセラーは、自分の考えや能力を全面に出して相手を救おうとする。しかしよいアドバイスを受けたとしても、そのとおり実行できないような人がじつはカウンセラーのところに相談に来ているケースが多いのである。カウンセラーのなすべきことは、まず相手の話を聴くことだという。相手の話を聴くことはエネルギーを要する。そこで耐え切れなくなったカウンセラーが、その人と縁を切るべく、何かアドバイスをしてしまうのである。聴く行為とは、相手の気持ちに共感しつつその在り方を受け入れることである。聴くことがしっかりできると、相手はもともと持っている潜在力が活性化されてくる。自分で立ち上がることができるのである。河合隼雄はそのように述べている。連句においても、前句をしっかり読むことによって、かつしっかり読んだ時にのみ、前句の潜在力が活性化される。この事情は、カウンセリングの場合と同様である。
 文芸雑誌は近ごろあまり売れないが、小説を書く人は増えている。廃刊された『海燕』という雑誌では、実売数よりも新人賞の応募の数の方が多かったという笑えないデータが出ている。その雑誌を買ったことがなくても、情報誌を見て応募する人がいるということなのである。小説を読む人は少なくなったが、書く人は多い。この現象を指して文芸のカラオケ化と呼ぶ人もいる。読むことは文芸の基本でなければならない。連句においては(発句以外は)まず前句を読むところから創造が始まる。文芸の基本が、連句においては、理屈抜きで自然と体得できるわけである。
 インターネットでも情報の発信は非常に盛んで、個人で文芸のホームページを作っている人も多い。自主出版よりは手軽で費用もあまりかからないためであるが、こちらでも発信する人は多いが、読む人は少ないのが実情である。連句的精神に立脚した文芸ネットの建設を「ダンボールネット」は旗印にしている。。創作と享受を同時に成り立たせること、現代に連衆心を回復することが連句の理念と言えようが、同時にそれは電脳文芸誌『ダンボールネット』がインターネットの世界で追及しようとしている課題である。文学は、電子ネットワークの環境の中で、いかなる進化を遂げるのか。ダンボールネットの実験がいま始まる。(ダンボールネットのアドレスはヤフーの検索ページで検索可能)
 連句の方法論はどこまで文学の方法論として拡張可能か。それはひとつの検討すべき根本課題であろう。ネットワーカーとしての芭蕉ということを考えることにもそれは繋がるのである。
 別所真紀子の『雪は今年も』は俳諧における連衆心の在処を深く尋ねた作品集である。その中に書き下ろしで「ちり椿」が収められている。ここには、羽紅の目を通して見た俳諧師芭蕉の姿が描かれており、周到な研究を踏まえつつ詩人の筆で書かれた傑作である。「ちり椿」の中に引用された羽紅宛の芭蕉の手紙を読み返すならば、そのまま芭蕉の肉声が蘇るようだ。芭蕉の肉声は作者にはっきりと届いたのだ。だからこそその声を我々も同時に聴くことができるのである。
「流れるような仮名の多い女房体の優しい文字を、美味な馳走を味わうように、ゆっくりたんねんに拾ってゆきながら、羽紅は、その人のまなざしが見え、声音が届くように思った。何という想いの深い書状であろう。躯の奥深いところで血が熱を帯びて騒ぎ立つ」(別所真紀子『雪は今年も』所収「ちり椿」より引用)
 たまたまネットで連詩の企画があった際に、羽紅を素材にして、連詩の一篇を作ってみた。連句的精神とはいかなるものかをネットの仲間に伝えたかった。題は「ちり椿の人」。

 笄もくしもむかしやちり椿
 と、かってその人は詠ったことがある。
 ちり椿を見てその人は
 長い黒髪をくしけずり、櫛をさした昔を思い出していた。
 娘もまだ若く、人妻のままにして、健やかであるのに
 なぜ、その人は黒髪を切らねばならなかったのか。
 その句を読んで、人々は
 いかなる美女だろう、貞女だろうと
 ささやきあったものである。
 その人をよく知っているグルは、人々にこう答えた。
 いいえ、その人は美女ではありません。
 貞女でもありません。
 ただ、もののあわれを知る人なのですよ、と。
 ちり椿の人がグルに捧げた祈り。
   ならば もう
   けっして 近づくまい けっして終わるまい
   力をこめて 立ち続けよう
 ちり椿の人が髪を切った原因は
 グルに捧げたその祈りの中に隠されていたのである。
(祈りの部分はこがゆき作・連詩「一人染める頬」よりの引用)

 すでに別所真紀子は『芭蕉にひらかれた俳諧の女性史』において、「ちり椿のひと」野澤羽紅に一章を捧げ、羽紅が尼になる意志は如何辺にあったかを推測し、次のように語っていた。
「それは、俳諧衆としての行動の自由、俗世の女を捨てることによって得る非日常への憧れ、夫と共に芭蕉に従ってこの道にいそしむための飛翔であるに違いない。
 芭蕉ほどのひとに「心のあわれなる尼」と賛えられたことで、羽紅は自分の決断を自らことほいだことであろう」
 (別所真紀子『芭蕉にひらかれた俳諧の女性史』より引用)
  「ちり椿」という作品は、羽紅と俳諧との関わりを描きつつも現代に連衆心を回復すべく祈念するところに、作者の深い志がある。そもそも連衆心とは何であるかという連句の根本課題は、学術書や研究書ではとうてい伝えることはできない。それはただ文学だけに可能である。連句とは何かを知る真の詩人の筆だけが、それを現代に蘇らせることができたのである。『雪は今年も』の出現は現代文学の中で連句が新しいステージを獲得したことを意味するであろう。そのことをいまはただ素直に喜びたい。
 瞬間と永遠が一句の中で取り合わされることによって名句が生まれる。これが芭蕉の方法であったとドナルド・キーンは説く。「発句は瞬間の観察(木槿を食う馬、池に飛び込む蛙、あるいは風に吹かれる竹といった)でなければならないが、それとともに馬なり蛙なり嵐によって一瞬のうちにかき乱された永遠なるものを受けとめている必要がある。一つは永遠、一つは瞬間という二つの要素が組み合わせられ、あるいは併置されることによって、句に緊張感が付与される。こうして創造された緊張の磁場の中で、読む人の心は永遠と瞬間のあいだを電光のように跳躍する」
(ドナルド・キーン著『日本文学の歴史』7・徳岡孝夫訳)
 なるほどたしかに「古池や蛙飛びこむ水のをと」「閑さや岩にしみ入る蝉の声」といった名句には、「人間が永遠を知覚するためには、それをかき乱す一瞬がなければならない」(キーン)という構造が隠されているように思える。この方法は芭蕉の門人たちにも受け継がれた。
 だが同時に「永遠と瞬間を組み合わせる」とはプルーストの発見した方法でもあった。瞬間の感覚が永遠の記憶を呼び起こすというのが、マルセル・プルースト『失われた時を求めて』という作品の構造の基底にはある。マドレーヌのひとかけらの味からコンブレーに蘇るプルーストの少年の姿(『スワン家の方へ』)は、ちり椿に黒髪をくしけずった昔を思い出す羽紅尼(「笄もくしもむかしやちり椿」)に通底すると言っていい。
 プルーストの方法の背後にはベルクソンがいる。ベルクソン哲学を介して、芭蕉とプルーストは結び付く。知覚と記憶を一瞬のうちに結合させるその方法によって、彼等は一卵性双生児である。 ベルクソンは常に新しい。私にとってベルクソンとは、新しさとは何かを教えてくれた人であるといっても過言でない。
 「ただ人間のみにおいて、とくに人間の中の最上のものにおいて、生命の動きは障害なくつづき、生命の動きが途中で創造した人体という芸術作品を通じて、精神生活のかぎりなく創造的な流れを発します。未来に強い重みをかかるために、たえず過去の全体にもたれかかる人間は、生命が大きな成功をおさめたものなのです。しかしとくに創造的な人間は、それ自身が密度の濃い活動によって、他の人々の活動を密にし、寛大の徳のかまどに寛大に火をつけることのできる人間であります。かれらは進化の頂点に立っているというよりも、起源のごく近くにあって、根底から来る衝動をわたしたちの目に感じさせます。わたしたちが直観の働きによって生命の原理そのものまではいりこもうとするならば、かれらを注意深くながめて、かれらの感ずることを共感するように努めましょう。探底の神秘に突き進むためには、ときどき頂上を見なければならないものです。地球の中心にある火は火山の頂上にだけしかあらわれません」(ベルクソン「意識と生命」渡辺秀訳)
 例えばベルクソンのこういう部分を読むと、それがそのまま芭蕉のことを語っているような思いがするのは私だけではあるまい。 ベルクソンの哲学をそのまま実践すると芭蕉のような人が生まれるのだ。「新しみは俳諧の花」と説いた芭蕉は、古人の心がそのまま自分の体の中に生きていた人であった。芭蕉は、未来への跳躍のために、記憶の全体を踏み台にできる人であった。
連句においては連続するABCの句は、ABとBCで順次別の世界を作っていく。その結果B句は次の読み手によって新しい解釈が付け加わる。付けること、そして転じること、この二つが連句の方法であり、連句の詩的なダイナミズムはここから生まれてくる。この簡単な方法が、過去の記憶と現在の知覚を結び付けつつ未知の未来へ跳躍する生命の原理を内包しているのである。


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