古文書に親しむ

古文書の初歩の学習

第十六章 新島襄の手紙・備中玉島行きその二十五

2013年03月04日 08時18分06秒 | 古文書の初歩

新島襄の手紙備中玉島行きのまとめ、その二

 玉島航海当時の時代背景は、桜田門外の変が二年前の1860年、会津藩主松平容保が京都守護職になったのが1863年正月、後に新撰組となる浪士の一行が京都に入ったのも1863年で、まさに幕末動乱の時代であった。

 新島は、この航海に出る前、17才から19才にかけて、幕府の軍艦教授所で勉強し、蘭学をはじめ算数・代数・航海数学・航海技術等の学問を学び、19才で玉島航海に出て実際に航海を体験したのであるが、この航海から帰って20才の頃「聯邦志略」(アメリカ合衆国の地理・歴史書)を読んだとの記録が残っている。

 函館から渡米の船に乗ったのが1864年で、21才の時であるから、出国の決意は前述の「聯邦志略」を読んだ影響もあったと考えられる。この青年は、日本国内の政治動向には目もくれず、外国の先進的学問の道にひたすら励み、帰国後、同志社の創立に心血を注ぐことになるのである。

 函館航海について

 1864年3月12日、江戸出帆、4月21日函館到着。この航海については、日記風の「函館紀行」と、父民治宛の手紙が残っている。函館入港直前の4月18日、北風及び潮流に妨げられて、霜(下)風呂沖へ落碇し、翌19日には下風呂に上陸して、その地の温泉にも入っている。この間の事情は、前記「函館紀行」及び父宛の手紙により明らかである。

 つまり新島襄は、二年前に本州の最南端の村に寄港し、更にこの年、本州最北端の村に立ち寄っているのである。勿論意識しての事ではなかったが、何かの因縁の様なものを感じてならない。(注・橋杭港は行政区域としては和歌山県東牟婁郡串本町鬮野川であり、橋杭という地名は通称である。本土から対岸の離島・大島に向かって、橋の杭状の奇岩が一列に突きだしている天下の奇勝が見られる事から、橋杭と呼ばれている。また、下風呂は青森県下北郡風間浦村の字名であり、村としての「最北端」となる。実際の最北端の町はマグロで有名な大間町である。) つづく