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古文書の初歩の学習

第十六章 新島襄の手紙・備中玉島行きその二十六

2013年03月05日 17時04分49秒 | 古文書の初歩

新島襄の手紙、備中玉島行きのまとめ、其の三 

 安中藩と備中松山藩

 風間浦村の「海峡いさりび公園」には、「同志社創立者新島襄先生寄港の地」の碑が建立されている。また函館市仲浜町海岸には「新島襄海外渡航乗船之処」の記念碑が有る。

 講座中で触れたが、この航海に当たっては、安中藩大目付、飯田逸之助の世話に依る所が大きかったとされているが、玉島航海に次いで二度目の乗船であり、特に飯田目付の世話に依らなくても、自然に話しは進んだと思われる。実は、上州安中藩は、備中松山藩の分家筋になり、親戚関係である。松山藩の板倉家から、板倉勝明が安中藩へ跡継ぎとして入っている。

 松山藩がアメリカから購入した帆船「快風丸」の初航海(試運転)が玉島行きであり、二度目の航海が函館行きである事から、殊に海外に関心の高い、新島青年に話しが来るのは不思議ではない。寧ろ安中藩の承認を得るのに、飯田目付の世話になったと言う事であろう。松山藩は、現高梁市に山城としては、日本で最も高い位置に城があり、高梁川を経由して玉島港から運河で繋がっていた。瀬戸内海の良港であり、海運で大いに栄えたため、外国製の帆船を18,000ドルで購入したのであろう。 著名な儒学者・川田甕江『かわたおうこう』が松山藩に召し抱えられて、江戸藩邸に居り、新島襄も教育を受けた。(参考までに昭和の歌人「川田順」は川田甕江の三男である。)

 逸話 「七五三太」『しめた』 の由来

 安中藩江戸屋敷に於ける新島家では、女子が四人続けて生まれ、五人目の子供が男子であった為、祖父 弁治(御老大人様)は「シメタ!」と喜び、又一説に正月十四日、松の内だった為「七五三縄」『しめなわ』に因んで名付けたと言う話しもあるが、これらは後世の作り話で、実は十分考えて名付けたのだと言う説もある。「七五三太」は幼名で元服して「敬幹」という名前になっている。正式には「新島七五三太敬幹」である。

 「襄」の由来

 函館から便を得て乗船したアメリカ船では、21才の新島青年は、船長に可愛がられ、「ジョー」という愛称で呼ばれていた。「ジョー」は英米においては、日本の「太郎」のようなよくある男子の名前である。新島は渡米後、この時の通称を自分の名前として名乗り、帰国後も「襄」という漢字を充てて使用した。戸籍名まで変えたかは不明。

 最後になったが、現在放映中のNHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公「山本八重」は後に新島襄と再婚して、永く京都に住み、襄の没後も活躍することになる。新島は、八重の兄、山本覚馬と親交があり、同志社設立の発起人の一人として、山本覚馬も加わっている。京都今出川の大学用地は、旧薩摩藩邸の跡地であり、同志社が取得するのに、覚馬の尽力も有ったとされている。 

  終わり 3月5日午後一部修正

 勝手ながら、明日は都合により休みます。