渡辺松男研究2の2(2017年7月実施)
『泡宇宙の蛙』(1999年)【蟹蝙蝠】P14~
参加者:泉真帆、T・S、曽我亮子、A・Y、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:泉 真帆 司会と記録:鹿取未放
11 ああ母はとつぜん消えてゆきたれど一生なんて青虫にもある
(レポート)
かけがいのない母親の一生と、とても自分の生を左右する存在とは思えないような青虫の一生とを対比した、大胆な表現に度肝をぬかれた。他者のなかでも最も自分に近い自分を生んだ母親と、他者のなかでも遥かに遠い他者であろう青虫との対比をし、その落差ゆえに、悲しみが極まる。「一生なんて青虫にも」と、母にもあったであろう、幼虫から蛹そして蝶へと羽搏いた一生を思い浮かばせる。青虫ときくとぷよぷよコロコロしたあの体を浮かべるが、青虫の一生、といわれるとその変身の様を思う。一首は反語的に詠まれていて、母の命以上に重いものなどこの世にはないんだ、と詠われているのだと思う。愛するたった一人の母だけれど、その母の一生に思いを馳せると、その変化のさまに、青虫の変化してゆく様を連想したのではないだろうか。作者との命の縁はまったく次元が違うのに、思い浮かんでしまった「青虫」がいまいましい。「◯◯なんて◯◯にもある」と口語で絞り出す声調に、母の死をなんとか受け入れようとし、なお受け入れられないでいる作者の悲しみや寂しさが宿る。(真帆)
(当日意見)
★真帆さんのレポートの反語的に詠まれているというところがいいなあと思いました。(慧子)
★お母さんを青虫に例えるなんて大胆なうたいかただなあと思いました。(曽我)
★自分の母だからってそんなに特別ではなくて、青虫にだって一生はあるんだって言っていると思
っていましたが、レポートを読んでなるほど蝶になって最期は綺麗になるんだって劇的なことが
含まれているんだなって感心しました。(T・S)
★そうですか、私は全く素直にこの通りに読んでいました。確かにトンボでも蝉でもなく青虫をも
ってきたのは変身のイメージはあったのでしょうけれど。華麗な変身とかお母さんの一生の中に
あった華やかな時代とか、そういうことはあまり考えませんした。一生って部分ではなくてボリ
ュームとして総体としてみた一生だと思います。また、自分からの距離の問題で比較して、母は
近くて青虫は遠いと考えるのも違うかなあと思います。人間よりもはかない、短い生の代表とし
て青虫を選んだとき、蝶への変身の華麗さよりもやはりあのぶよぶよの姿を出したかったのでは
ないかな。大事な母とぶよぶよの青虫は一回性の命の本質においては同じだって。反語的という
と青虫を虫けらとして見くだしているみたいで、青虫のために気の毒と思います。もちろん、お
母さんの一生は作者にとって大切なんでしょうけれど、だからといって青虫を侮どるのは作者の
思想から外れるんじゃないかなあって。
あんまり実人生と対照させてはいけないのでしょうけれど、お母さんは作者が大学生の時亡く
なっています。そして歌を始めたのはずっと後です。心の中でずっとお母さんの死を引き摺って
いて、短歌の言葉を得た時に吐き出したというか歌ったんでしょうね。お母さんの歌、とてもた
くさん作っていますから、どれだけ作者にとって重い存在だったかはよく分かります。もっとも
リアルタイムでは青虫は出てこなかったでしょうから、時間が経過しているからこそ詠めた歌だ
とも思います。この歌については『泡宇宙の蛙』の自選五首に入っていて本人のコメントがある
ので、纏めるとき書いておきます。私はむしろ斎藤茂吉の「死にたまふ母」なんかと比較して読
む方が、この歌は面白く読めるかなあと思っています。(鹿取)
★なるほど。寺山修司なんか歌の中で生きているお母さんを殺していますものね。(真帆)
(後日意見)
大井学のインタビューで、『泡宇宙の蛙』の自選五首を聞かれて渡辺松男はこの歌を挙げ下記のように書いている。(鹿取)
母にも一生がある。青虫にも一生がある(もっとも青虫は蝶になりますが)。それはあまりにもあたりまえのことです。しかし両者を同列に置いたところが生の内実としての等価性をもただちに暗示してしまい、ケシカランと言いますか、ある種のタブーに触れたようです。また外側から強引に概念化したところが不快感を誘因しているかも知れません。しかしこの歌は自己納得のための歌でした。母の一生の意味を突きはなすことによって逆説的に浮かびあがらせようとしたのでした。母は大切なものです。とても。切っても切っても切れないものです。その前提があるから詠めたのだと思います。(「かりん」二〇一〇年一一月号の渡辺松男特集)
『泡宇宙の蛙』(1999年)【蟹蝙蝠】P14~
参加者:泉真帆、T・S、曽我亮子、A・Y、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:泉 真帆 司会と記録:鹿取未放
11 ああ母はとつぜん消えてゆきたれど一生なんて青虫にもある
(レポート)
かけがいのない母親の一生と、とても自分の生を左右する存在とは思えないような青虫の一生とを対比した、大胆な表現に度肝をぬかれた。他者のなかでも最も自分に近い自分を生んだ母親と、他者のなかでも遥かに遠い他者であろう青虫との対比をし、その落差ゆえに、悲しみが極まる。「一生なんて青虫にも」と、母にもあったであろう、幼虫から蛹そして蝶へと羽搏いた一生を思い浮かばせる。青虫ときくとぷよぷよコロコロしたあの体を浮かべるが、青虫の一生、といわれるとその変身の様を思う。一首は反語的に詠まれていて、母の命以上に重いものなどこの世にはないんだ、と詠われているのだと思う。愛するたった一人の母だけれど、その母の一生に思いを馳せると、その変化のさまに、青虫の変化してゆく様を連想したのではないだろうか。作者との命の縁はまったく次元が違うのに、思い浮かんでしまった「青虫」がいまいましい。「◯◯なんて◯◯にもある」と口語で絞り出す声調に、母の死をなんとか受け入れようとし、なお受け入れられないでいる作者の悲しみや寂しさが宿る。(真帆)
(当日意見)
★真帆さんのレポートの反語的に詠まれているというところがいいなあと思いました。(慧子)
★お母さんを青虫に例えるなんて大胆なうたいかただなあと思いました。(曽我)
★自分の母だからってそんなに特別ではなくて、青虫にだって一生はあるんだって言っていると思
っていましたが、レポートを読んでなるほど蝶になって最期は綺麗になるんだって劇的なことが
含まれているんだなって感心しました。(T・S)
★そうですか、私は全く素直にこの通りに読んでいました。確かにトンボでも蝉でもなく青虫をも
ってきたのは変身のイメージはあったのでしょうけれど。華麗な変身とかお母さんの一生の中に
あった華やかな時代とか、そういうことはあまり考えませんした。一生って部分ではなくてボリ
ュームとして総体としてみた一生だと思います。また、自分からの距離の問題で比較して、母は
近くて青虫は遠いと考えるのも違うかなあと思います。人間よりもはかない、短い生の代表とし
て青虫を選んだとき、蝶への変身の華麗さよりもやはりあのぶよぶよの姿を出したかったのでは
ないかな。大事な母とぶよぶよの青虫は一回性の命の本質においては同じだって。反語的という
と青虫を虫けらとして見くだしているみたいで、青虫のために気の毒と思います。もちろん、お
母さんの一生は作者にとって大切なんでしょうけれど、だからといって青虫を侮どるのは作者の
思想から外れるんじゃないかなあって。
あんまり実人生と対照させてはいけないのでしょうけれど、お母さんは作者が大学生の時亡く
なっています。そして歌を始めたのはずっと後です。心の中でずっとお母さんの死を引き摺って
いて、短歌の言葉を得た時に吐き出したというか歌ったんでしょうね。お母さんの歌、とてもた
くさん作っていますから、どれだけ作者にとって重い存在だったかはよく分かります。もっとも
リアルタイムでは青虫は出てこなかったでしょうから、時間が経過しているからこそ詠めた歌だ
とも思います。この歌については『泡宇宙の蛙』の自選五首に入っていて本人のコメントがある
ので、纏めるとき書いておきます。私はむしろ斎藤茂吉の「死にたまふ母」なんかと比較して読
む方が、この歌は面白く読めるかなあと思っています。(鹿取)
★なるほど。寺山修司なんか歌の中で生きているお母さんを殺していますものね。(真帆)
(後日意見)
大井学のインタビューで、『泡宇宙の蛙』の自選五首を聞かれて渡辺松男はこの歌を挙げ下記のように書いている。(鹿取)
母にも一生がある。青虫にも一生がある(もっとも青虫は蝶になりますが)。それはあまりにもあたりまえのことです。しかし両者を同列に置いたところが生の内実としての等価性をもただちに暗示してしまい、ケシカランと言いますか、ある種のタブーに触れたようです。また外側から強引に概念化したところが不快感を誘因しているかも知れません。しかしこの歌は自己納得のための歌でした。母の一生の意味を突きはなすことによって逆説的に浮かびあがらせようとしたのでした。母は大切なものです。とても。切っても切っても切れないものです。その前提があるから詠めたのだと思います。(「かりん」二〇一〇年一一月号の渡辺松男特集)