2014年度版 馬場あき子の外国詠34(2010年12月実施)
【白馬江】『南島』(1991年刊)74頁~
参加者:K・I、N・I、佐々木実之、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、
T・H、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:渡部慧子 司会と記録:鹿取未放
日本書紀では白村江(はくすきのえ)。天智二年秋八月、日本出兵して
ここに大敗したことを太平洋戦争のさなか歴史の時間に教
へた教師があつた。その記憶が鮮明に甦つてきた。
255 なみよろふ低山(ひくやま)の木々もみぢつつ韓国(からくに)や炎を発しをれり吾をみて
(レポート)
作者の位置からさほど高くない山が並び、それでいて寄るように重なっているとの意であろう。ちょうど「もみぢ」の頃であった。「韓国や」と感嘆しているのは、ただもみじの美しい国としてのそれではあるまい。つづく「炎を発しをれり」とあるように狼煙をあげるにかよい、それは単純な見立てに終わらず、韓国と日本の長いかかわりのゆえに、作者の何らかの意識にはたらきかけるのである。「吾をみて」とするゆえんである。(慧子)
(当日発言)
★この一連では最初の詞書きが非常に重要で、それを踏まえてレポートしないといけな
い。「吾を見て」とあるが、背景の日本人全体に対して憤っている。(実之)
★「炎を発しをれり」は直接的には木々の紅葉のみごとさを言っているんだけど、実之
さんが言われたように韓国の日本人に対する憤りの強さのイメージだと思う。「をれ
り」は、憤りを感じ取ってぎょっとしている吾の痛みの感覚をよく伝えている。作者
のいつもの技で、紅葉した山(それは韓国そのものでもある)が吾を見て炎を発して
いるという構図になっていて、スケールが大きい。
ところで歌とは直接関係がないが、馬場あき子一行の韓国吟行の旅は1987年
11月、大韓航空機爆破事件が起こったのは同年11月29日である。帰国後の事件
だったのだろう。(鹿取)
(まとめ)
斎藤茂吉の『あらたま』に「朝あけて船より鳴れる太笛のこだまは長し並みよろふ山」がある。おそらく、茂吉が万葉集の歌「とりよろふ」からヒントを得て「並みよろふ」という語を造ったのだろう。そして馬場あき子が茂吉の語を借用したのだろう。「並みよろふ」はどちらの歌でも「連なって寄り添っている」くらいの意味だろうか。
結句が10音の破調だが、「吾」を押出さなければ定型に収めることが可能だ。定型を破ってでも「吾」を入れたい強い思いがあったことは一連全体に掛かる詞書を読むとよく分かる。この歌は序歌としての機能をしっかり果たしていて、次の歌からあふれるように思いが展開される。歌集のあとがきを読むとさらによく分かるが、長くなったのであとがきの引用は次回に延ばす。
(鹿取)
【白馬江】『南島』(1991年刊)74頁~
参加者:K・I、N・I、佐々木実之、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、
T・H、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:渡部慧子 司会と記録:鹿取未放
日本書紀では白村江(はくすきのえ)。天智二年秋八月、日本出兵して
ここに大敗したことを太平洋戦争のさなか歴史の時間に教
へた教師があつた。その記憶が鮮明に甦つてきた。
255 なみよろふ低山(ひくやま)の木々もみぢつつ韓国(からくに)や炎を発しをれり吾をみて
(レポート)
作者の位置からさほど高くない山が並び、それでいて寄るように重なっているとの意であろう。ちょうど「もみぢ」の頃であった。「韓国や」と感嘆しているのは、ただもみじの美しい国としてのそれではあるまい。つづく「炎を発しをれり」とあるように狼煙をあげるにかよい、それは単純な見立てに終わらず、韓国と日本の長いかかわりのゆえに、作者の何らかの意識にはたらきかけるのである。「吾をみて」とするゆえんである。(慧子)
(当日発言)
★この一連では最初の詞書きが非常に重要で、それを踏まえてレポートしないといけな
い。「吾を見て」とあるが、背景の日本人全体に対して憤っている。(実之)
★「炎を発しをれり」は直接的には木々の紅葉のみごとさを言っているんだけど、実之
さんが言われたように韓国の日本人に対する憤りの強さのイメージだと思う。「をれ
り」は、憤りを感じ取ってぎょっとしている吾の痛みの感覚をよく伝えている。作者
のいつもの技で、紅葉した山(それは韓国そのものでもある)が吾を見て炎を発して
いるという構図になっていて、スケールが大きい。
ところで歌とは直接関係がないが、馬場あき子一行の韓国吟行の旅は1987年
11月、大韓航空機爆破事件が起こったのは同年11月29日である。帰国後の事件
だったのだろう。(鹿取)
(まとめ)
斎藤茂吉の『あらたま』に「朝あけて船より鳴れる太笛のこだまは長し並みよろふ山」がある。おそらく、茂吉が万葉集の歌「とりよろふ」からヒントを得て「並みよろふ」という語を造ったのだろう。そして馬場あき子が茂吉の語を借用したのだろう。「並みよろふ」はどちらの歌でも「連なって寄り添っている」くらいの意味だろうか。
結句が10音の破調だが、「吾」を押出さなければ定型に収めることが可能だ。定型を破ってでも「吾」を入れたい強い思いがあったことは一連全体に掛かる詞書を読むとよく分かる。この歌は序歌としての機能をしっかり果たしていて、次の歌からあふれるように思いが展開される。歌集のあとがきを読むとさらによく分かるが、長くなったのであとがきの引用は次回に延ばす。
(鹿取)