かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

馬場あき子の外国詠 356 中欧①

2023-10-04 13:27:48 | 短歌の鑑賞
 2023年度版 馬場あき子の外国詠50(2012年3月実施)
   【中欧を行く 秋天】『世紀』(2001年刊)91頁
   参加者:N・I、K・I、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、
       T・H、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:崎尾廣子 司会とまとめ:鹿取未放
   

356 ハバロフスクの上空に見れば秋雪の界あり人として住む鳥は誰れ

        (まとめ)
 この旅は10月か11月頃のことであろうか。(歌集巻末に載る中欧の歌の初出が総合誌の1月号である。)冬の早いシベリアにはもう雪が積もっているのが飛行機から見下ろせた。四句から五句にかけての「人として住む鳥は誰れ」は難解で、さまざまな意見があった。
 一番単純な解釈は、飛行機から見ると一面の雪景色で、その上を鳥が舞っていた。そんな鳥を見ながら、あの中に人間となって住む鳥がいるかもしれないなあ、あるいは人間となって住んでいる鳥もいるのだろう、と空想している。「鶴の恩返し」などを考えればそれほど無理な解釈ではないだろう。次の歌(アムールを越えてはるかに飛びゆくをあなさびし人恋ひて降(お)りゆける鳥)へも自然に繋がる。
 もう一つの解釈は、言葉の外側にシベリアで亡くなった日本人兵士を鳥として悼む気持ちが揺曳しているととるもの。ヤマトタケルは死後白鳥になって飛び立ったという伝説もあるから兵士が鳥になるのはいいが、「住む」が現在形なので少し無理のある解釈かもしれない。とはいえ、作者はシベリア上空を通る度に抑留された日本人兵士のことが気になるらしく、しばしば歌にしているので、何首か挙げてみる。
  白光を放つ雲上ひきしまり足下にシベリアの秋ひろがるといふ
『飛種』(1996年刊)トルコ途上の詠
 シベリアの雲中をゆけば死者の魂(たま)つどひ寄るひかりあり静かに怖る
 呼びても呼びても帰り来ぬ魂ひとつありきシベリアは邃(ふか)しと巫(ふ)に言はしめき
 魂は雪に紛れてありと言ひて青森の巫の泣きしシベリア
 収容所(ラーゲリ)の針葉樹林に死にしもの若ければいまだ苦しむといふ

 一万七千の高度よりみる白雲の網に捕らはれし初夏のシベリア
『青い夜のことば』(1999年刊)スペイン途上の詠


       (当日意見)
★歌の切れ目はこんなふうになると思います。
ハバロフスクの/上空に見れば/秋雪の/界あり人として/住む鳥は誰れ
7・8・5・9・7でずいぶん破調の歌です。4句が句割れになっています。
 上空から雪の界を見ると、沢山の鳥も飛んでいたのでしょうね。その鳥たちを見なが
 ら人間となって棲んでいる鳥もいるんだろうなあ、と思っているのかな。(鹿取)

 ※以下、ブログを読んでくださった方々からの意見です。
  

        ◆(後日意見)①
とても魅力的な歌。その超常的な魅力はやはり下の句の「人として住む鳥」にある。秋雪の界に人として住む鳥は、神話的で、この世ならぬスピリチュアルなイメージもあります。「人として住む鳥」は誰か。やはり生身の人間ではないのだと思います。飛行機のなかで、シベリアの雪景色を見ながら初めてそんな存在が感受できたのではないかと思いました。鹿取さんのおっしゃるように、シベリア抑留の死者のたましいが重ねられているのかもしれないと思います。(N・U)


       ◆(後日意見)②
 鶴の恩返しの話から解釈するのがいいかもしれない。抑留の話まで広げるのはやはり無理かもしれませんが、そんな鳥が今住んでいるのかもしれないと見下ろしているのではないか。シベリアからやってきて日本で越冬する鶴や昔話へ思いが飛んで、飛行機から物語の世界へきたように見ているのだろうか。ロシア民話の変身譚などを思い出しました。

                       
      ◆(後日意見)③ ロシア文学に出典があるのではないか。(田村広志)


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 渡辺松男『寒気氾濫』の一首... | トップ | 馬場あき子の外国詠 357... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

短歌の鑑賞」カテゴリの最新記事