2025年度版 渡辺松男研究49(2017年5月実施)
『寒気氾濫』(1997年)【睫はうごく】P164~
参加者:泉真帆、T・S、曽我亮子、A・Y、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:泉 真帆 司会と記録:鹿取未放
417 どの窓もどの窓も紅葉であるときに赤子のわれは抱かれていたり
(レポート)
紅葉の一葉一葉が、作者の心を開いてくれる窓なのではないか。齋藤茂吉の歌に「あかあかといつぽんの道とほりたりたまきはる我が命なりけり」とあるが、赤の生生とした生命力を紅葉に感じる。全体の中に抱かれるように我が在るというのか。氾濫し続けた作者のすべてが抱かれるようだ。この歌の「窓」を、灯をともす民家とは、私はとりづらかった。(真帆)
(当日意見)
★この歌、いいですね、好きです。(A・Y)
★愛されていた祝福されていたということ。(T・S)
★自分が抱かれていて家の中にいるんですね。窓から紅葉が見えている。こういう赤の根源の中にわれはいたんだよと言っているような気がします。(慧子)
★私もどの窓からも紅葉が見えていると取ったのですが、それだと随分大邸宅という感 じがしますが。まあ、どの家の窓からも紅葉が見えていた、そういう集落を想像してもいいかもしれませんね。松男さん5月生まれで紅葉の季節は生後半年くらいです。それは別に個人の思い出を詠んでいるのではなくて、素材として使っているということでしょう。赤い紅葉はやっぱり生命の象徴なんでしょうね。ただ、第1歌集の巻末の歌ですから、かなりの思い入れのある歌だと思うのですが、紅葉にはもっと大きな含みがあるのでしょうが、もうひとつ読みきれていないもどかしさがあります。前の歌(十月のひかるまひるま火というをみつめておれば火は走りだす)が「火」でこちらは「紅葉」、生命の動的な部分が走り出す火で、内側に燃えるエネルギーの反映が紅葉なのかもしれません。(鹿取)
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