かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

馬場あき子の外国詠 53 中欧 386

2022-06-20 16:48:14 | 短歌の鑑賞
  22年度 馬場あき子の外国詠53(2012年6月実施)
      【中欧を行く 虹】『世紀』(2001年刊)P105~
       参加者:N・I、崎尾廣子、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:藤本満須子(急遽代理のため書面のみの参加)
     司会と記録:鹿取 未放


386 雨けむるカレル橋の彼方プラハ城大統領執務中の旗ありき窓

      (レポート)
 384(旅人に見えざる歴史の時間あれどカレル橋雨のヴルタヴァを見す)ではカレル橋から下を流れるヴルタヴァを見下ろしてうたったが、ここではカレル橋から上を見上げてプラハ城の姿を見ている。雨にけむるカレル橋の向こうには大統領の執務中という旗がある窓がもやっとしている中に見えている。執務中の大統領の姿まで何と生き生きと浮かび上がってくるようだ。(藤本)
  カレル橋:ヴルタヴァ川にかかる最古の橋。1357年カレル4世着工、60年かけ
       て完成。ゴシック様式、520メートル、幅10メートル、聖像が両側に
       並ぶが、彫刻はバロック様式。


      (当日意見)
★プラハ城はかなり遠くなんだけれど。(曽我)
★この旗は今この部屋で執務しているよという意味ではなく、大統領は国内にいるよという
 意味で立ててあるそうです。(鹿取)


     (追記)(2013年11月)
 プラハ城は雨に煙っているくらいだから、大統領執務中の旗などカレル橋の手前から見えるわけがない。この一連の一首目は雨のプラハの街を去ってゆく歌だから、昨日だか一昨日だか、少なくともこの旅の間に作者は城を見学してこの旗を見たのだろう。鮮やかに懐かしげに翻っていた旗を思い出しているのだ。今は雨降りであるし、遠いのでその旗は見えない。だから「旗ありき」と過去の助動詞「き」を使って思い出している。間近に見た昨日は(あるいは一昨日は)大統領執務中の旗が鮮やかに靡いていたなあ、という気分。(鹿取)


    (追記2)(2018年1月)
 プラハ城は9世紀後半に建てられた。以後この城には明暗さまざまな歴史が刻み込まれた。それは概ね外国に侵略され、支配を受け、また自由が弾圧された暗い歴史である。
 近い所では、第一次世界大戦後の1918年にハプスブルク家が崩壊、400年間の支配から解放されてチェコスロヴァキア共和国が成立した。1920年には、長く外国にあって独立運動を続けていたマサリクが初代チェコスロバキア大統領に選ばれ、民衆に歓迎されながらプラハ城の大統領府に入った。マサリクはそこで演説を行い、「真実は勝つ」という旗をプラハ城に掲げ、偏狭な民族主義を諫めた。
 しかし、1939年にはヒトラーによってまたプラハは占拠され、プラハ城ではヒトラーがマサリクと同じ演壇に立って演説を行った。1945年までナチスの支配が続いた。
 第二次大戦後は、社会主義国チェコスロヴァキアの首都となったが、その後も平坦な道ではなかった。1968年にはプラハの春と呼ばれる改革運動が起こるが、ソビエト軍が侵攻し、プラハの春は潰された。その後は共産主義政権になり、改革派は弾圧された。民衆に自由はなく、全ての映画が検閲されたという。しかし、1989年、ベルリンの壁が崩壊し、ビロード革命により共産党政権は崩壊、革命の立役者だったハヴェルが最後のチェコスロヴァキア大統領となり民主化を行った。1993年にはチェコとスロヴァキアが分離し、ハヴェルがチェコの初代大統領となり、プラハはチェコの首都となった。
 馬場あき子一行がプラハを訪れたのはその6年後の1999年秋である。ちなみに馬場の旅より10年後の2009年、オバマ大統領が核なき世界を唱えた「プラハ演説」がプラハ場外のフラチャニ広場で行われた。

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