かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

馬場あき子の外国詠 372(中欧)

2020-03-21 18:28:15 | 短歌の鑑賞
馬場あき子の外国詠51(2012年4月実施)
  【中欧を行く ドナウ川のほとり】『世紀』(2001年刊)P96~
   参加者:N・K、崎尾廣子、鈴木良明、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:渡部 慧子 司会と記録:鹿取 未放


372 夫をなくせし市街戦もはるかな歴史にてドナウ川の虹をひとり見る人
  (レポート)
 「夫をなくせし市街戦も」と「も」によって昔語りのように詠い出され、女性にスポットを当て、歴史的事実の周縁を「歴史にて」としていよう。はた「はるかな」と形容しているのは、過酷な歴史を生きた人々が歳月に癒されたであろうと確信しているような視線だ。「虹」があたかもそれを象徴し、時そのものとして流るる「ドナウ川」にかかる。時をつかのま照らすのだ。そしてそれを「ひとり見る人」がいる。いずれにせよ取材によったのではなかろうに断定でとおしていることに違和感がないのは、作者の力のゆえであろう。(慧子)


     (当日発言)
★「虹をひとり見る人」は371番歌「ケンピンスキーホテルの一夜リスト流れ老女知るハ
 ンガリー動乱も夢」同様、作者の力量で作り出した人物。プロのやり方。(鈴木)
★レポーターの言う「過酷な歴史を生きた人々が歳月に癒されたであろうと確信しているよ
 うな視線だ」というところは反対。人々の気持ちは歳月が経っても癒されきれていないだ
 ろう。(崎尾)
★生々しい傷は歳月によって薄れているだろう。(鈴木)
★確かに生々しい傷は薄れているのだろう。それが虹を見るという行為で表現されている。
 しかし「ハンガリー動乱」で夫を亡くした老女はその傷を死ぬまで抱えて生きるのだ。
 三・一一で子供や親を失った人も同じだと思う。ただ鈴木さんのいうように実在しない人
 物を詩の力で登場させたと考える方が歌として深くなるかもしれない。あるいは「ドナウ
 川の虹をひとり見る」老女がいたが、その老女と作者は関係を持たず、したがって「夫を
 なくせし市街戦」は作者の想像と考えることも可能だ。そういう独断が詩を生み出してい
 るとも言える。レポーターもいうように馬場の独断・断定の歌には秀歌が多い。また馬場
 自身朔太郎の「独断でさえないものが詩であろうか」というような意味の言葉をよく引用
 している。(鹿取)
   沙羅の枝に蛇脱ぎし衣ひそとして一夜をとめとなりゆきしもの
                『青椿抄』馬場あき子


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馬場あき子の外国詠 371(中欧)

2020-03-20 19:04:25 | 短歌の鑑賞
馬場あき子の外国詠51(2012年4月実施)
   【中欧を行く ドナウ川のほとり】『世紀』(2001年刊)P96~
   参加者:N・K、崎尾廣子、鈴木良明、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:渡部 慧子 司会と記録:鹿取 未放


371 ケンピンスキーホテルの一夜リスト流れ老女知るハンガリー動乱も夢

             (レポート)
 ケンピンスキーホテルに投宿するのだが、「一夜」として物語風に時と場所を設定し、そこにハンガリーの代表的作曲家リストの曲が流れている。すでに認識していたことを聴覚はさらに美しく浄化させる力があると思うのだが、ピアノ曲であろう、それを聴き、それに身をゆだねている「老女」がいる。そんななかでいろいろ過ぎ去ったけれど「ハンガリー動乱も夢」と「老女」は「知る」。夢というものについて解釈はできないのだが掲出歌では「夢」だったとか「夢」のようだとしていないのも味わい深い。ところで「老女知る」これは誰なのか。1956年の「ハンガリー動乱」の為に動いた男達の背を、またそのすさまじさを見ていたであろう女、深く時代と人を見つめて、経験が知恵となっている「老女」を誰というのではなくここに登場させる。「ケンピンスキーホテルの一夜リスト流れ」という詠い出しにふさわしい人物の据え方だ。(慧子)


            (当日発言)
★自分の感じを言うのではなく、ある人物を登場させて代詠のように詠うやり方。この人物は実
 際にいなかったかもしれない。(鈴木)
★良い歌で好き。レポーターが書いている「ハンガリー動乱も夢」と「老女」が「知る」という点
 については賛成できない。老女が知っているのは「ハンガリー動乱」であろう。舞台は豪華なケ
 ンピンスキーホテル、旅の一夜おそらく生演奏されているのだろうリストを聴いている。老女の
 記憶の中には生々とあるハンガリー動乱も、もう夢の彼方のように遠くなってしまったというこ
 とだろうか。あるいは旅人としてホテルに身を置いて陶然としてリストを聴いていると歴史とし
 て知っている「ハンガリー動乱」も夢のように感じられる、ということだろうか。(鹿取)


          (後日意見)(2013年11月)
 鈴木さんの発言にあるように、この老女は実際にはいなかったのかもしれない。言葉の問題を考えると近くに座った老女が作者に問わず語りにハンガリー動乱のことを語ったと考えるには無理がある。そうすると広島とか沖縄でやっているような老人が体験談を語る会か。これも公会堂とか体育館とかなら分かるが、背景のリストが流れる優雅なホテルにはそぐわない。やはりこういう老女の存在を設定しているのかもしれない。
 おそらく老女(架空でもよいが)は、どんなに時間が流れてもハンガリー動乱を生々と覚えているのだろう。昨日のことのように覚えていながら、世の中においては遠い夢になってしまったことを老女は自覚しているのだろう。作者はその老女のぼうぼうとした思いに寄り添っているのだ。
 この老女は生きているけれど能のシテである。(鹿取)


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馬場あき子の外国詠 370(中欧)

2020-03-19 18:37:30 | 短歌の鑑賞
馬場あき子の外国詠51(2012年4月実施)
  【中欧を行く ドナウ川のほとり】『世紀』(2001年刊)P96~
   参加者:N・K、崎尾廣子、鈴木良明、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:渡部 慧子 司会と記録:鹿取 未放


370 動脈のごとく貫けるドナウ川の薔薇都市の重き疲れ夕映ゆ

        (レポート)
 「ドナウ川」はドイツ、オーストリア、チェコスロバキア、ハンガリー、セルビア・モンテネグロ、ルーマニア、ブルガリアを流れて、ヨーロッパ東南部をまさしく「動脈のごとく貫ける」川だ。「薔薇都市」とは美しいイメージが立ち上がる。日本の古都は碁盤状だが、エッフェル塔を中心に市街が放射状の薔薇を連想するパリのような都市がドナウ川流域にあると、ここまで想像したのだが調べるにしくはなし。ブダペストを指すと得られた。
 流域とかほとりを省略して「ドナウ川の薔薇都市の」と言葉をつなぐ、二つの「の」が優美だ。そして薔薇の重なる花びらの「重き」と都市の物語の語りつくせないほどの「重き」をかさね合わせ、それは「疲れ」へと言葉に無理のない流れがあり、「夕映ゆ」に「薔薇都市の重き疲れ」は慰撫されてみえたのであろう。(慧子)


       (当日発言)
★「重き疲れ」を出すために上から言葉を使ってきている。(鈴木)
★8、5、6、8、7と韻律がたどたどしていて読みにくい。それが「重き疲れ」 とマッチし
 ているともいえる。「薔薇都市」はそう呼ばれているということだが、「貫ける」「薔薇都市」
 と並べられると、がぜんエロティックな印象を受ける。それもけだるい気分に一役買っている
 のだろう。(鹿取)


          (まとめ)
 上の句の言葉は硬く8音、5音と韻律を乱ししているが、イメージ的にはエロティックな感じで下の句に繋がっていく。それは漢字表記の薔薇という字に負うところが大きい。そして歌は、そういうイメージを負う都市そのものに疲れを見いだしている。それは華やかな過去を持ちながら疲弊しているブダペストの街の感想であり、ハンガリーの国の姿でもあるのだろう。薔薇都市の名称をつけられた表層は美しい街が、重い疲れごと夕映えている。
 なお、レポーターの書いているチェコスロバキアは1993年から分離独立してチェコとスロバキア二国に別れている。馬場のこの旅行は1999年秋のことなので、正確にはチェコとスロバキアということになる。(鹿取)


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馬場あき子の外国詠 369(中欧)

2020-03-18 19:07:05 | 短歌の鑑賞
馬場あき子の外国詠51(2012年4月実施)
  【中欧を行く ドナウ川のほとり】『世紀』(2001年刊)P96~
   参加者:N・K、崎尾廣子、鈴木良明、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:渡部 慧子 司会と記録:鹿取 未放


369 ドナウ川のひと日の風景にすぎざるをあひ群れて撮すわが身かなしも

           (レポート)
 あそびのごとく「あひ群れて撮す」時があるのだが、堅固な城の側ではなく、滔々と流れていかなるものものみこんでしまいそうな「ドナウ川の」そばだ。そこで「ひと日の風景にすぎざるを」そんな感慨をもったのは「ドナウ川の」悠久のなかの「ひと日」と作者の人生のある「ひと日」との落差によるのだろう。「わが身かなしも」に愛しと哀しの二文字が浮かぶ。(慧子)


             (当日発言)
★「ドナウ川」は他の川でも取り替え可能。(鈴木)
★自分がドナウ川を見た時は、台風の後だったせいか汚なかった。しかし他の川と違い有名だし、
 ここには四季折々の風景の変化がある。だから取り替え可能ではない、ドナウ川としての説得
  力があるのではないか。(N・K)
★どこに立ってドナウ川を見ているのかが分からない。スイスのロイス川の歌でも、どこから見
  ているか分からなかった。(藤本)
★確かに「ドナウ川」はボルガ川にもアムール川にも置き換え可能に見える。この川でないとい
  けないことを説得力あるようにどうして出すかは難しい。それで「去来抄」に〈行く春を近江
  の人と惜しみけり〉という句についての問答があるのを思い出した。{と、「去来抄」の概略
  を説明した後、①実景である ②歌枕であるという点で}あそこでは「行く春」を「行く歳」
  に、「近江」を「丹波」に置き換えはできないという話だったが、この歌ではどうか。(鹿取)


               (まとめ)       
 当日の議論はここまでだったが、件の「去来抄」の部分を引用する。

  行春を近江の人とおしみけり   芭蕉
 先師曰く、尚白が難に近江は丹波にも、行春は行歳にもふるべしといへり。汝いかが聞き侍るや。去来曰く、尚白が難あたらず。湖水朦朧として春をおしむに便有るべし。殊に今日の上に侍ると申す。先師曰く、しかり、古人も此国に春を愛する事、おさおさ都におとらざるものを。去来曰く、此の一言心に徹す。行歳近江にゐ給はば、いかでか此感ましまさん。行春丹波にゐまさば本より此の情うかぶまじ。風光の人を感動せしむる事、真なるかなと申す。先師曰く、汝は去来共に風雅をかたるべきもの也と、殊更に悦び給ひけり。

 芭蕉の質問に対して去来は、琵琶湖の湖水が朦朧として春を惜しむのにぴったりだ、実感があると答える。それに芭蕉が付け足して言う。昔の文人達も都の春に劣らず近江の春を愛したのだと。去来ははたと納得して、歌枕としての近江に思い至る。先人達が多く歌ってきた近江だからこそ、この情が浮かんできたのだと。さて、ドナウ川はどうであろうか。(鹿取)

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馬場あき子の外国詠 368(中欧)

2020-03-17 18:25:57 | 短歌の鑑賞
馬場あき子の外国詠51(2012年4月実施)
  【中欧を行く ドナウ川のほとり】『世紀』(2001年刊)P96~
   参加者:N・K、崎尾廣子、鈴木良明、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:渡部 慧子 司会と記録:鹿取 未放


368 イシュトヴァーンのされかうべに吾れも会ふべくやあやしざわめく人に蹤きゆく

            (レポート)
 ハンガリーにキリスト教をもたらした建国王である「イシュトヴァーンのされかうべ」へとこわいものみたさのざわめきであろう、とにかく「ざわめく人に蹤きゆく」。そしてこの行為を「吾れも会ふべくや」と述べるのだが、一首の中で「や」が大切な働きをし、つづく 「あやし」に力を添えている。「や」につづく4、5句から作者の心の状態を思うに、たかぶりがちで疑問と感動の入り交じったものではないか。
 しかしここで「されかうべ」にこだわるのだが、イシュトヴァーンの右手のミイラは聖
イシュトヴァーン大聖堂に保存されている「されかうべ」ではない。これは当時演じられていた「イシュトヴァーンのされかうべ」という演劇の題名ではないか。ならばそれを何かの括弧でくくってもよさそうなのにと思うのだが、どうであろう。(慧子)


            (当日発言)
★「あやし」はどこに掛かるのか、分かりにくい。(藤本)
★下に掛かっていくと考えたらどうか。(鈴木)
★終止形だからここで切れているんだけど、意味の上では上下どちらにも掛かるのでは。ところで、
 「イシュトヴァーンのされかうべ」はどこにあるのだろうか。(鹿取)
★まだ見ていないから、この段階では分からない。(鈴木)
★「イシュトヴァーンのされかうべ」がここに陳列されているわけではないが、流行の演劇に引っかけ
 てしゃれているのではないか。だから「あやし」と言っているのではないか。(鹿取)


             (まとめ)
Wikipediaによると、「一〇三八年、ハンガリー王国の礎を築いたイシュトヴァーンは他界し、その遺体はブダペストの西方にあるセーケシュフェヘールヴァールの大聖堂に埋葬された。現在は、この都市にイシュトヴァーン博物館が置かれている。」そうだ。また、「遺体から失われていた右手がトランシルヴァニアで発見されてから各地を転々とし、一七七一年マリア・テレジアによってブダに戻された」ということである。すると、聖イシュトヴァーン大聖堂には右手のみがあり、セーケシュフェヘールヴァールの大聖堂には右手の無い遺体が収められていることになる。セーケシュフェヘールヴァールはブダペストからは離れた場所にあり、ブダでは「イシュトヴァーンのされかうべ」には会えない。
 レポーターのいうように現地で上演されていた「イシュトヴァーンのされかうべ」という流行の演劇を観に行ったのかもしれない。あからさまに括弧でくくるとつまらないので、わざと括弧なしで韜晦を試みたのか。そうすれば「あやし」も生かされる。
 ちなみに、ウラル山脈あたりに住んでいたマジャル民族が西進してこの地に住み着いたのがハンガリーの起こりだそうだが、その部族長アールパードを「伝説の鳥」が生んだと伝えられている。初代国王イシュトヴァーンはその子孫にあたるそうだ。(鹿取)


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