かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

馬場あき子の外国詠 377(中欧)

2020-03-26 20:26:38 | 短歌の鑑賞
  馬場あき子の外国詠52まとめ(2012年5月実施)
    【中欧を行く ドナウ川のほとり】『世紀』(2001年刊)P100~
      参加者:I・K、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:鈴木 良明 司会と記録:鹿取 未放


377 「知識人の役割」を熱く語りたるサルトルの通訳は深作光貞なりき

           (レポート)
 サルトルは、講演のなかで、①専門外のことに口をだすものこそが知識人であり、タコツボ的に個別の領域に閉じこもる専門家は、知識人ではない ②知識人は普遍性を追求するものだが、専門家は、結局は個別的なブルジョア階級に奉仕している ③普遍性を追求する知識人は、個別的な階級の利害の外に出ることになる ④個別具体に関わらない口先だけの偽の知識人にならないよう、閉じた場所の外へ、世界へと関係するとき真の知識人となる、などと熱く語っている。その時の通訳は、深作光貞(1925~91)文化人類学者。1952年~57年パリソルボンヌ大学留学(現代文明の重苦しい息苦しさを感じる)。その後、5年間 東南アジア、カンボジアで生活(自然の中で生きてゆく博物誌的な人間の瑞瑞しさを知る)。(鈴木)


        (当日発言)
★わざわざ通訳の名前を出しているのは特別だから。この人は通訳なのにサルトルと丁々発止と
 やり合ったと聞いた。(曽我)
★そうすると通訳としては適役ではなかったのか。(鈴木)
★否定的という訳ではない。(曽我)
★馬場と深作は短歌で深い繋がりがあったので好意的に詠んでいる。知識人の政治参加を強く訴え
 たサルトルの通訳がわれらの深作だったんだよと言っている。文化人類学者である自分の専門に
 閉じこもらず活躍していた深作だからこそサルトルの通訳として適役だったと思う。(鹿取)
★丁々発止の内容を知りたいなあ。話は逸れるが、国際ペン学会でカナダ人の会長の口からいき
  なり佐藤佐太郎の短歌の話が出たことがあった。10カ国語ほどに同時通訳されていたので通訳
 者は困惑するのではと驚いたが、こういう場合演説の原稿は前もって通訳者には渡されているそ
 うだ。深作にも前もって原稿は渡っていて丁々発止の準備期間が充分あったのだろう。(鹿取)
★でも、短歌を知らない人には深作の名が出てきても分からない。(崎尾)
★作者は自分の歌を読む人は当然深作を知っていると考えて作っているのだろう。それにわれわれ
 は「短歌を知らない人」ではなく短歌を知っている立場ですから、知らないのはまずいし、知ら
 なければ調べればいい。エッセーなどで馬場は深作との関係をしばしば語っている。例えばつい
 最近の「かりん」にはこんなことを書いています。

 四月には東京の練馬にある豊島園で、「現代短歌シムポジウム」が開かれ、塚本邦雄にはじめて会った。これが縁となって、深作光貞が主催する歌誌「律」誌上に、塚本の企画による紙上劇「ハムレット」にガートルード役で参加したが、この作詞によって想を得たのが、短歌で創作する劇詩「橋姫」である。私はガートルードの余力を駆って五十首相当ほどの作品をまとめた。(「かりん」2011年10月号)

  昭和38(1963)年当時の話です。歌誌「律」は深作が資金を提供し、中井英夫が編集人となった 歌誌。ただし、7号で終刊した。深作は若い時「人民短歌」によって実作もしたようです。91年、66 歳で没しています。(鹿取)


                 (追記)(2015年8月)
 小中陽太郎が『1968 パリに吹いた「東風」—フランス知識人と文化大革命—』の中で、深作光貞が通訳をしたこの講演のことに触れているので、以下引用する。

 1966年、ベ平連は、ある版元とサルトルとボーボワールを日本に呼んだ。パネルのひとり谷川雁は開口一番「サルトルの名前は不愉快だ、下宿でコッペパンをかじりながら読んでいた頃を思い出す」といかにも貧乏学生らしい歓迎の辞を発し、これにはさすがのサルトルも帰国後「日本は大変楽しかった、ベ平連でさえ」といった、と風のたよりに伝わった。火花が飛んだのはボーボワールだった。開高健が「『第二の性』にベトナム植民地の話が全く出てこないのはなぜか」と問うたからたまらない。カッとなったボーボワール、ものすごい早口でまくしたてた。通訳にあたった深作光貞(精華大教授)もお手上げだ。女史は「トミコ、トミコ」と会場の朝吹登水子を壇上に呼び、「それは別の話(本)だ」と応じたが。

 評者はサルトルに謝まった。彼は「ça fait rien」と答えた。「たいしたことない」という常套語である。アルチュセーリエンヌの「リヤン」と同じ言葉である。評者はこれを深く徳とし、のちモンパルナスの墓地に行って二人の墓に手を合わせた。

 ここで、「評者」とあるのは筆者の小中陽太郎、二人の墓とはサルトルとボーボワールの墓である。この討論集会に参加した様々な「知識人」が回想を記しているが、日本滞在中通訳として同行した朝吹登水子も『サルトル、ボーヴォワールとの28日間・日本』という本でこの場面に触れている。小中よりボーヴォワールの主張は詳しく書かれているが、深作の通訳については立場上配慮されたらしく記述はぼかされている。参加者の回想をひとつひとつ当たれば、サルトルと深作の丁々発止の具体的なやりとりが読み取れるかもしれない。ちなみに、通訳を努めた深作はこの時41歳、この討論集会の傍聴者は1300人だったそうだ。(鹿取)

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馬場あき子の外国詠 376(中欧)

2020-03-25 19:51:08 | 短歌の鑑賞
  馬場あき子の外国詠52まとめ(2012年5月実施)
     【中欧を行く ドナウ川のほとり】『世紀』(2001年刊)P100~
      参加者:I・K、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:鈴木 良明 司会と記録:鹿取 未放


376 ハンガリー動乱より十年の日本にサルトルは鑿(のみ)のごとく冴えゐつ

           (レポート)
「ハンガリー動乱より十年」といえば1966年。この年には、ビートルズも来日しているが、サルトルは、ボーヴォアールとともに来日し、各地で講演を行った。作者もその講演を聴いていることだろう。サルトルは、当時の文学者や芸術家にも影響を与え、多くの若者にとって知的アイドル的存在であった。「鑿のごとく冴えゐつ」という比喩も、まさに実感だろう。(鈴木)


          (当日発言)
★サルトルもハンガリー動乱について批判的意見を言っているので、その繋がりでこう詠んでい
  る。(鈴木)
★そういう繋がりなんですね。旅行詠だからハンガリー動乱を詠んでいるうちに、そういえば10
 年後にはサルトルが来日したなと連想が及んだのかと思っていました。サルトル来日の1966
 年当時、高校生だった私はサルトルとボーヴォワールに熱狂的に憧れていた。講演を聴くために
 何枚も葉書を書き、一枚当たったが結局倫社の先生にあげてしまった。(鹿取)
★サルトルは 知識人のアンガージュマン(政治参加)を強く打ち出した哲学者で、鈴木さんや私
 など団塊の世代がサルトルの影響を受けたいちばん尻尾でしょうね。大学の一般教養の哲学の試
 験で「実存主義について記せ」とだけ書いたB4の用紙が配られて、サルトルはけっこう読んで
 いたので裏表びっしり書き込んだのを覚えています。作者は60年安保に敗れた後の長い喪失の
 時代だったと思われるが、なおさら政治参加を説くサルトルの言葉は作者を含む若い知識人達に
 鋭く迫ってきたし、励まされもしたのだろう。「鑿のごとく冴えゐつ」にサルトルへの賛嘆の思
 いが表れていますよね。余談ですが、サルトルは64年、ノーベル文学賞に選ばれたが、「いか
 なる人間でも生きながら神格化されるには値しない」と言って、これを辞退したということです。
   (鹿取)

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馬場あき子の外国詠 375(中欧)

2020-03-24 18:30:12 | 短歌の鑑賞
  馬場あき子の外国詠52まとめ(2012年5月実施)
    【中欧を行く ドナウ川のほとり】『世紀』(2001年刊)P100~
      参加者:I・K、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:鈴木 良明 司会と記録:鹿取 未放


375 歴史動く時の決断にカダールは敵でなきものは味方と言ひき

                 (レポート)
 ハンガリー動乱を革命とみるか反革命とみるか、カダールという人物に対する評価によってこの一首の読みは変わってくる。以下08年発刊の『ハンガリー革命1956』より要約。

 ※ハンガリー動乱は、1956年にナジ政権の樹立とソ連軍撤退を要求して、ハンガリーの民衆が蜂起した十二日間の闘い。このときカダール(1912~89)は、ナジ革命政府に参加しながら、途中で裏切り、ソ連と手を結び、反乱鎮圧後、ソ連からハンガリー最高指導者に任命され、実質的に88年まで続いた。62年「われわれに反対しない人たちは、われわれの味方だ」と言い、武装蜂起して逮捕され投獄された人々への恩赦を約束し、ほぼ全員が釈放された。ただ反乱鎮圧後、死刑になったナジ等に対する罪の意識を後に告白。ハンガリー動乱をめぐる評価については、ハンガリーでも89年に、動乱の評価を修正し、反革命という表記を改め、民族独立運動とみなす。同年、社会主義を捨て、人民共和国を建国し、ヨーロッパへ回帰する。(なお、動乱当時、日本の社会党、共産党はともに、「反革命」との立場をとっていた)(鈴木)*下線は、レポーター


            (当日発言)
★一首では分かりにくい。ハンガリー動乱時、カダールがソ連軍を招き入れた時、「敵でなきもの
 は味方」と言ったのか。作者はそのことを良いと思ったのか、反対だったのか。しかし『ハンガ
 リー革命1956』にあるように62年のことばだとすると、武装蜂起で投獄されていた人たち
 を釈放したことだから同国人のことで、この言葉は大したことがないように思える。(鈴木)
★ハンガリー動乱時、ラジオでずっと実況していて、子供心にソ連や共産主義というものを怖い
  と思っていた。(藤本)
★「敵でなきものは味方」はレポーターの説明を聞いていると、弱い。こじつけとまでは言わな
  いが。(崎尾)
★作者の立場はどうなのか?作者の意見が分からない。(藤本)
★作者はソ連軍導入時に発せられた言葉だと思って、こう歌ったのかも知れない。62年の事柄だ
 とすると「歴史動く時の決断」と緊密に結びつかなくなる。歌とは直接関係ないが、いじめなど
 の場合は、はっきりと自分に味方してくれない者は、みんな敵というのが通常の考え方だが、カ
 ダールはその逆を言っている。ある意味、苦しい言い訳のようにも聞こえる。(鹿取)
★この時点でカダールはナジが裏切ったように見えて、処刑にしたのか。(曽我)
★結果的にはそうだろう。ナジはアメリカに助けを求めたが、アメリカは動かなかったらしい。
  それにしても、この言葉を詠む意義は何だったのか?大戦中中立で敵ではないと思っていたソ
  連が突如敵になったことへの何かか?この歌は馬場先生はいつ歌われたのか。(鈴木) 
 *中欧への旅は1999年。(後日、鹿取記)
★もっと細かく歌わないと分かりにくい。私たちの歌とすると注文がつきそうだ。カダールは最初
 は民衆を裏切ったのだから。(藤本)
★そうかなあ、私はこれで歌えていると思うけど。(鹿取)
★「敵でなきものは味方」という言葉の裏にある複雑さを先生は見ているのかもしれない。
   (崎尾)


               (まとめ)
  「敵でなきものは味方」については、きちんとした文献を調べないといけないのだが、とりあえずWikipediaによると、動乱の1956年、

  ソ連の戦車は革命を潰すため、11月4日の夜明けにブダペストに向かって動き出した。
  同日、カーダールを長とした、いわゆる「臨時労農革命政府」(Provisional Revolutionary
     Government of Workers and Peasants)の樹立宣言がソルノクから放送された。(中略)
  カーダールはまた「敵対しない者は誰もが我らと共に」あり、「普通の人々は、弾圧はも
  とより監視さえも恐れる必要なく、その経済活動を続け、演説し、読み、書くための正当
  な自由を得る」と付言した。これは、自らに従わない者はすべて敵とみなしたスターリン
  主義独裁者ラーコシによる支配とは特筆すべき対照をなした。(Wikipediaより)

 と書かれている。この「敵対しない者は誰もが我らと共に」が馬場の歌の「敵でなきものは味方」のことなら革命当時(当日)の発言である。これで「歴史動く時の決断」と緊密に結びつく。この決断を馬場は評価しているのだろう。また後日、かつて敵として戦った思想の違う同国人を恩赦した、そのことをも評価しているのだろう。
 ところで、レポートにカダールがその処刑に罪の意識を持っていたと書かれたナジは、53年ハンガリー勤労者党の首相に就任。国民の生活改善をはかり、農業集団化制度や宗教を緩和し、強制収容所を廃止した。それがスターリン主義者達との対立を招き、55年首相を退陣、勤労者党からも除名された。ところが、徐々に民主化の声が高まり、56年に党に復帰し、同年ハンガリー動乱が勃発すると首相に復職。その後ソ連軍に拘束され、2年後の58年KGBによる秘密裁判で、絞首刑に処された。満62歳。一方カダールはソビエト連邦に支援され新しい共産主義政府を組織し、56年以降ハンガリーを統治。88年までハンガリーの権力の座にあったが、経済悪化と病気を理由に書記長を辞任し、翌89年7月77歳で病没。それから2ヶ月余り後、ハンガリー動乱33年後の同月同日に当たる1989年10月23日、社会主義独裁を放棄しハンガリー共和国が建国された。この年、ナジは名誉を回復している。(鹿取)

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馬場あき子の外国詠 374(中欧)

2020-03-23 18:45:47 | 短歌の鑑賞
  馬場あき子の外国詠52まとめ(2012年5月実施)
      【中欧を行く ドナウ川のほとり】『世紀』(2001年刊)P100~
      参加者:I・K、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
       レポーター:鈴木 良明 司会と記録:鹿取 未放


374 ドナウ川八橋の中の自由橋に自由社会の自殺増ゆると
            (レポート)
 上流(北端)の鉄道橋を除く、「八橋」のことだろう。自由橋を巡る際に、ガイドの説明の中にこの言葉があったのかもしれない。自由とはすばらしいものだと普通思っているが、サルトルは逆に、「実は人間はみんな自由であることに不安を感じ、そこから逃れようとしているのだ」という。それだけが自殺の増える要因とは思わないが、そのような一面もあるだろう。さらに皮肉なのは、「自由橋」での自殺者が多いということだ。世界遺産に登録されていないこの橋は、さほど目立たない橋、改称した共産主義政権に対する民衆の鬱屈した思いの顕れか。(鈴木)


          (当日発言)
★人間は自由でありすぎると不安を感じて戦争中よりかえって自殺する人が増えるらしい。
   (鈴木)
★人間の不思議を感じる。ああしなさい、こうしなさいと言われる方が楽だ。(崎尾)
★鈴木さんのレポートにもるようにサルトルは「人間は自由という鎖に繋がれている」というよう
 なことを言っていますよね。まあ、もう少し哲学的な意味合いですけど。フェレンツ・ ヨーゼ
 フは王様の名なので、共産主義政権下では「自由橋」に改称されたのでしょうね。(鹿取)
★もともとハンガリーは第二次大戦中日独伊側だったが、戦後ソ連に占領され、共産主義に組み
 込まれていた。今はユーロ圏の一員。89年にソ連から解放されて、共産主義から自由主義に
 変わった。(鈴木)


            (まとめ)
 自由橋は第二次世界大戦時に、他の橋と同様に破壊されたが、最も早く修復されて、オリジナルの装飾が復元された。緑に塗られ、ハンガリー国王の紋章や伝説の鳥トゥルルを戴く美しい橋だそうだが、レポートにもあるようにどうした訳かこの橋だけ世界遺産には登録されていない。歌は、自、自、自と濁音の頭韻を踏み、あまり心地の良くない不思議な韻律を作っている。その韻律からは苦い諧謔の味がしている。(鹿取)

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馬場あき子の外国詠 373(中欧)

2020-03-22 18:59:04 | 短歌の鑑賞
  馬場あき子の外国詠52まとめ(2012年5月実施)
     【中欧を行く ドナウ川のほとり】『世紀』(2001年刊)P100~
       参加者:I・K、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:鈴木 良明 司会と記録:鹿取 未放


373 ドナウ川マルギット橋くさり橋平和橋自由橋見渡せば秋

           (レポート)
ドナウ川に架かるブダペスト市内の橋を、上流(北側)から巡ったのであろう。古い王室の名、拘束をイメージする「くさり」、それらから解放される「平和」、「自由」。それぞれの歴史を思わせる橋を巡ってくると、ドナウ川は今、秋を装う一本の川でありながら、歴史の流れをそのまま映す川のようでもある。
 ※現在、橋は、9つ。上流(北端)の鉄道橋、南端の高速道路を除くと七つの橋が主に使用さ  れている。これを北側から順にみると、次のような並びになり、いずれも第二次大戦でドイツ  軍に破壊され、再建または復元されている。(○印は世界遺産登録)、
○マルギット橋―ハンガリー王の息女の名。モンゴルの襲来が二度とないよう祈りの生涯。
 ○くさり橋―「セーチェーニ鎖橋」  ハンガリー伯爵の名と鉄鎖を用い、鎖状の電飾から。
 ○エルジェーベト橋―ハンガリー王妃の名 (この橋を「平和橋」と呼んだか)
 ●自由橋―「フェレンツ・ヨージェフ橋」という名であったが、共産主義政権下で改称。
                         (鈴木)

          (当日発言)
★くさり橋、平和橋、自由橋は、馬場先生がそう呼ばれたのか?(藤本)
★くさり橋、自由橋は現地でこう呼ばれている。平和橋については調べたが分からなかった。しか
 しここで平和橋の代わりにエルジェーベト橋と呼んだのでは、歌が壊れてしまう。(鈴木)
★作者が勝手に平和橋とは言わないだろうが、私も調べたが分からなかった。くさり、平和、自
 由と橋の名がうまく関連して繋がっている。(鹿取)
★橋の一つ一つに歴史がある。これらの橋の歴史を知りながら旅をする先生。先生がこれらの橋
 に自分の人生を重ねているように思える。(崎尾)


         (まとめ)
 平和橋については文献には出てこなかった。マルギット橋から南に向かって順にくさり橋・エルジェーベト橋・自由橋と呼ばれている。その順番からレポーターは作者がエルジェーベト橋を平和橋と呼んだかと推定されたのだろう。レポートにもあるように自由橋の改称前の名は皇帝の名をとったフェレンツ・ヨーゼフ橋。その王妃がエルジェーベトで、改称前は夫婦の名称の橋が並んでいたことになる。
この歌の「平和橋」の名は歌作の折、くさり橋と自由橋の間にふっとすべり込んだものかもしれない。橋の名前をリズミカルに連ねているが、橋の名の意味するところはハンガリーの歴史が刻み込まれていて、重い。「見渡せば秋」の「秋」に歴史への哀惜と旅の途上のあてどない気分が滲んでいる。(鹿取)


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