かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男の一首鑑賞 1の39

2020-06-25 20:01:38 | 短歌の鑑賞
 渡辺松男研究 5(13年5月) 『寒気氾濫』(1997年)橋として
          参加者:崎尾廣子、鈴木良明、渡部慧子、鹿取未放
           まとめ  鹿取 未放

39 生きて尾を塗中(とちゅう)に曳きてゆくものへちちよちちよと地雨ふるなり

★「生きて尾を塗中(とちゅう)に曳きてゆく」は中国の諺だった気がする。鹿取さんがいつか
 歌っていらした。(慧子)
★「荘子」の「秋水編」にあります。『寒気氾濫』の出版記念会で辰巳泰子さんが
 「荘子」を引用して褒めていらしたのをよく覚えています。日本語訳だけ、ちょ
 っと読んでみます《日本語訳は後に記述》。この話から故事成語ができました。
 まあ、そういう泥の中に尾を曳いているものの上に地雨が降っている。鈴木さん
 の解釈の慈雨というのはいいなと思います。「ちちよちちよ」は鈴木さんのレポ
 ートにあるように蓑虫の鳴き声ですけれど、枕草子なんかを参考にすると分かり
 やすいかなあと思います《後に記述》。ちょっと蓑虫の子が哀れですけど。泥の
 中に尾を曳いて生を送っているものに、ちちよちちよと慈雨が降りそそいでいる
 って優しいですね。「ちちよちちよ」の部分は「枕草子」では蓑虫の親に向かっ
 ての求めですけど、ここでは天から甘露のように地雨が降っている。(鹿取)
★「荘子」の亀っていうのは結局どういうものなんでしょうね。(鈴木)
★政治のトップとかに居座ったりしないで在野で思索しながら心豊かに自由に生き
 ている人。(鹿取)
★実際、群馬県ではこういう場面を目撃することがあるんでしょうね。それを踏ま
 えて詠んでいるから、言葉がとてもリアル。田舎の泥の中がありありと浮かんで
 くる。そういう実景の背景に荘子だとかニーチェの「力への意志」だとかがある。
   (鈴木)

【「枕草子」41】
虫は、鈴虫。 蜩。 蝶。 松虫。蟋蟀。はたおり。われから。ひを虫。螢。
みのむし、いとあはれなり。鬼の生みたりければ、親に似て、これも恐ろしき心あらむとて、親のあやしき衣(きぬ)ひき着せて、「いま秋風吹かむ折ぞ来むとする。待てよ」と言ひおきて、逃げていにけるも知らず、風の音を聞き知りて、八月ばかりになれば、「ちちよ、ちちよ」とはかなげに鳴く。いみじうあはれなり。
             
 【「荘子」秋水】 (福永光司/講談社学術文庫) より
 荘子が濮水のほとりで釣りをしていた。そこへ楚の威王が二人の家老を先行させ、命を伝えさせた(招聘させた)。「どうか国内のことすべてを、あなたにおまかせしたい(宰相になっていただきたい)」と。荘子は釣竿を手にしたまま、ふりむきもせずにたずねた。「話に聞けば、楚の国には神霊のやどった亀がいて、死んでからもう三千年にもなるという。王はそれを袱紗(ふくさ)に包み箱に収めて、霊廟(みたまや)の御殿の上に大切に保管されているとか。しかし、この亀の身になって考えれば、かれは殺されて甲羅を留めて大切にされることを望むであろうか、それとも生きながらえて泥の中で尾をひきずって自由に遊びまわることを望むであろうか」と。二人の家老が「それは、やはり生きながらえて泥の中で尾をひきずって自由に遊びまわることを望むでしょう」と答えると、荘子はいった。「帰られるがよい。わたしも尾を泥の中にひきずりながら生きていたいのだ」


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

清見糺の一首鑑賞  27

2020-06-24 18:02:55 | 短歌の鑑賞
     ブログ版清見糺鑑賞 4  
          かりん鎌倉支部  鹿取未放  


27 しんとして飛ばない鷺に飛べと言う口々に言う遠足の子ら(95/2)

 遠足だから動物園であろうか。大きな囲いの中に鷺は静かに立っているのであろうか。動かない鷺は子供たちには退屈な存在なので飛ぶ所を見たいのだ。こんなことを言うのは小学生、それも低学年であろう。立ったりしゃがんだり柵に寄りかかったりしながら、口々に叫んでいる子どもたちが目に見えるようだ。動物園で見かけた光景であろうか、子ども好きで教員だった作者の面目躍如といってもいい。斜に構えたところがなく、素顔を見るような歌だ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

清見糺の一首鑑賞  26

2020-06-23 18:51:47 | 短歌の鑑賞
     ブログ版清見糺鑑賞 4  
          かりん鎌倉支部  鹿取未放  


26 きらきらしき罪はつくらず仕事せずひねもすのたりのたり河馬在り
                      「かりん」95年2月号

 蕪村「春の海ひねもすのたりのたりかな」を引用している。動物園での嘱目だろうが、師の馬場あき子に怠け者と常にいわれていた清見氏の自画像でもある。
 彼が愛読していた坪野哲久に「われの一生(ひとよ)に殺(せつ)なく盗(とう)なくありしこと憤怒のごとしこの悔恨は」(『碧巌』)という歌があるが、これほど厳しい問いつめではないにしろ、「きらきらしき罪」さえまっとうできない己のいくじなさをぼんやりと思っているのだろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

清見糺の一首鑑賞  25

2020-06-22 17:43:24 | 短歌の鑑賞
     ブログ版清見糺鑑賞 4  
          かりん鎌倉支部  鹿取未放  


25 コこの秋は無能無才とク雲に鳥カカ核の時代のブブ文学賞はや
           「かりん」95年11月号

 吃音の侮蔑的な物言いは、核の時代を視野に入れることもせず文学などと称しているやからをおちょくっているのだろうか。あるいは自分自身の無能無才を自虐的に歌っているのだろうか。
 「この秋は」「雲に鳥」とくるからには芭蕉の「此秋は何で年よる雲に鳥」の句が下敷きになっているのであろう。ちなみにこの句で老いの衰えを嘆いた芭蕉はその年のうちに五〇歳で亡くなっている。そして、作者はこの歌の作歌時五十九歳である。だが「核の時代の文学賞」と芭蕉がうまく結びつかない。大きな文学賞というとノーベル文学賞だが、九四年度は大江健三郎がもらっている。この歌の作成時期は九四年の一一月頃だし、大江なら核についても言及しているので、それが念頭にあるのだろうか。核の時代に文学などは無力だ、ということを言いたいのだろうか。作者自身との関係はどうなのだろう。

 吃音のヒントは、岡井隆の次のような歌によるものかもしれない。
アメリカは戦後日本のそ、そ、祖型なンだ思はずどもつてだまる
                 『神の仕事場』(94)
 ただ、岡井の歌は31音に収まっていて、3句「そ、そ、祖型」、4句「なンだ思はず」と3句から4句へ句が跨がるので4句は句割れを起こして不思議なリズムを刻んでいる。対して、清見の歌は「コこの秋は」6音、「ク雲に鳥」6音、「カカ核の時代の」9音、「ブブ文学賞はや」10音と吃音部分が音数からはみ出してしまった。 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

清見糺の一首鑑賞

2020-06-21 16:53:40 | 短歌の鑑賞
     ブログ版清見糺鑑賞 4  
          かりん鎌倉支部  鹿取未放  


24 〈宗教は阿片〉とぞさはさりながらわれは阿片を神と吸いたし
                 「かりん」95年1月号

 この歌は『死者の書』展を見た感想のようだ。支部で鑑賞したとき「神と」の解釈が分かれた。①神として ② 神と共に。 ①だと、阿片を神様だと思って吸いたい、というのか。 ②はコミカルなんだか悲惨なんだかよく分からない。神は随分地に落ちた感じだ。①の宗教は阿片なんだけれど、それでもよいから現実から逃避できるなら神としての阿片を吸いたいというのだろうか。


       (後日意見)(2012年7月)
 この歌、〈宗教は阿片〉の阿片は比喩だが、下の句の阿片は阿片そのものを指しているのでそこにズラシがあり、解釈がしづらくなっている。〈宗教は民衆の阿片である〉はマルクスの言葉として知られている。もっともマルクスの言葉は、親友ハイネの「宗教は救いのない、苦しむ人々のための、精神的な阿片である」の借用らしい。それは措いて、またレーニンも同様のことを言っている。レーニンは言葉のみでなく宗教の弾圧を行い、教会を壊し、聖職者を処刑にした。当然行き過ぎであるが、言わんとするところは分かる。宗教は階級闘争を押さえ込む役割を果たすからである。すなわち来世での救いを掲げることで、搾取される側にはこの世でどんなに辛くても忍従しろと説き現実世界での解決から目を背けさせる。逆に支配階級には、この世でわずかばかりの施しをすれば救済されると説き、搾取することに免罪符を与える。
 ちなみに、挙げた歌の前に「かりん」の同じ月に載った歌で削った二首がある。
チベットの空深ければ飛ぶ鳥に骨肉あたえて葬りせるかも
『死者の書』によれば初日がおもしろい解脱は性的陶酔に似て
 掲出歌は、この2首目の下の句「解脱は性的陶酔に似て」からの連想により、阿片を引き出しているのだろう。マルクスやレーニンはそう言っているけれど、まあ、そういう難しい話は措いて、阿片がそんなに気持ちの良いものだったら阿片を神としてあがめて吸ってみたいよ、というのだろう。階級闘争云々はさりげなくずらして、しかしちゃっかり彼らが否定した神を結句で登場させているところが、この歌の味なのだろう。


       (後日意見)(2020年6月)
  寺田寅彦のこんな文章を見つけた。
  宗教は往々人を酩酊させ官能と理性を麻痺させる点で酒に似ている。そうして、 珈琲の効果は官能を鋭敏にし洞察と認識を透明にする点でいくらか哲学に似てい るとも考えられる。酒や宗教で人を殺すものは多いが珈琲や哲学に酔うて犯罪を あえてするものは稀である。(『銀座アルプス』)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする