かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男の一首鑑賞 153

2021-01-26 17:51:59 | 短歌の鑑賞
    ブログ版 渡辺松男研究 18 2014年8月
       【夢解き師】『寒気氾濫』(1997年)65頁~
       参加者:泉真帆、鈴木良明(紙上参加)、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
        レポーター:渡部 慧子 司会と記録:鹿取 未放


153 われの目をふかぶかと覗きこみてきし夢解き師の目潤みていたり

        (レポート)
 夢をよくみる作者は「夢解き」をたのむことが多くあったのだろう。「覗きこみてきし」の「きし」を距離の移動ではなく、経験を含んだ時間経過と解した。夢解きの為に大切な心の窓なる目はふかぶかと覗きこまれてきたのだ。その見る側の夢解き師の目が潤んでいるという、なぜなのか。私達の夢も目覚めている時もそれは全て生の連続であって夢解き師などと名乗って生の一部分である夢を解くことのおこがましさをこの場で思い至ったのか。残念ながらこの先をつづれない。(慧子)


         (紙上意見)
 「夢解き師」(夢の吉凶を判じ解く人)は、夢占いよりも信頼できそうであるが、われの目を覗き「見る人」は、同時にわれに「見られる人」であり、その目が潤んでいた、とわれに見破られてしまったところが、可笑しい。(鈴木)


         (当日発言)      
★慧子さん、つづれないのは何故ですか?(鹿取)
★わからないからです。(慧子)
★手相見とか占い師というのは街角でよく見かけますが、夢解き師というのはリアルに存在するも
 のですか?フロイトの夢判断とかなら高校時代夢中で読みましたけど。夢解き師というのが現実
 世界では浮かばないのでこの歌は何か幻想的な感じがする。(鹿取)
★夢解き師は〈われ〉であるか、もう一人の〈われ〉であるか、あるいは神のようなものなのか、
 現実の世界で自分を起こしてくれた奥さんとか娘さんとかも考えられる。フロイトなのかとも思
 ったのですけれど。ユーモアよりも奥深いものを感じました。潤んでいたというのは、お互いの
 心の行き来を感じます。(真帆)
★夢解き師は依頼したのだと思う。その夢解き師の目が潤んでいたということは、夢解き師として
 の資格がないと思う。(曽我)
★私は目が潤んでいたというところにエロチックなものを感じます。男同士のエロスのような。フ
 ロイトの夢判断だと全てエロスに行き着くんですけど。真帆さんがいうような対象と自分が入れ
 替わるような、主格がわからなくなるような訳のわからなさも感じるのですが。(鹿取)
★こう考えると実も蓋もないけど、夢を見ている自分を起こして夢を解放してくれた人、自分を起
 こしてくれた奥さんの目がエロチックに潤んでいたとか。(笑)(真帆)


           (まとめ)
 会の場では思いつかなかったが、夢解き師は作者が掛かっている精神科の医師ではないか。フロイトの夢判断の例もあるし。こんな不思議な夢を見たと訴えていると医師は「われの目をふかぶかと覗きこみてき」たのだ。潤んでいたのは夢を解き明かそうとして懸命になっているからか。または性的な興味を抱いたからか。またかなりニュアンスは違うが、『泡宇宙の蛙』に「夢監視人」の一連がにある。
題になった歌を挙げておく。「夢監視人われすこしまだ若ければ星尾峠の名に引かれ来し」(鹿取) 

◆大井学氏の評論「新しい歌の『主体』のために」【「かりん」二十五周年記念特集号(200
  3年5月)】に掲出の歌が採り上げられているので引用させていただく。

一般的に解釈すれば、「夢解き師」とは占い師や精神分析医を指すと考えられる。しかしここで着目したいのは、夢解き師の目が潤んでいるということに他ならぬ「私」が見ているということである。夢という意識の閾線上にあるものを覗き込む「夢解き師」が「私」を見つめる目を、逆に見つめているという構図である。ここにおいて「私」の意識は夢解き師の存在によって反射され、自身の深部を覗き込むことになる。夢解き師とは他者の姿を借りた自分自身であり、無意識の現実と有意識の現実とを往還する思考の実在性である。あたかも中空に浮かんだ白い診察室の風景を連想させるようなこの歌には、安堵とも恐怖ともつかぬ不思議な雰囲気がある。「見る」ことの安心と「見られる」ことの不安との間にあって、歌は湿り気を帯びながら呼吸している。(大井学)
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渡辺松男の一首鑑賞 152

2021-01-25 17:43:05 | 短歌の鑑賞
    ブログ版 渡辺松男研究 18 2014年8月
       【夢解き師】『寒気氾濫』(1997年)65頁~
       参加者:泉真帆、鈴木良明(紙上参加)、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
        レポーター:渡部 慧子 司会と記録:鹿取 未放

  
◆文章中、塚本邦雄の「邦」の正字が出せませんでした。申し訳ありません。
           

152 首をもぎとらるるごとき突風にもうれつに椎の老樹が匂う

      (レポート)
 「突風」の苛烈を前に進めない、体を曲げるなどとそのときのようすを言うことがあるが、「首をもぎとらるる」とは身体的で新鮮である。一方椎の花時は独特な匂いを放ち、それにからめたられてしまいそうな感じさえする。掲出歌は椎と突風の二物の衝撃を「もうれつに」「匂う」として老樹の気骨とも言うべきものでつなぎ納得させられる。(慧子)


       (紙上意見)
 歌全般にわたり表現の強さが際立っており、これが作者の持ち味である。150番の「凭れかかられてみるみる石化」やこの歌の「首をもぎとらるるごとき突風」「もうれつ」のような激しい言葉に、塚本邦雄の表現の痕跡をみることができるだろう。(鈴木)


       (当日発言)
★塚本邦雄の『日本人靈歌』の中の有名な〈突風に生卵割れ、かつてかく撃ちぬかれたる兵士の眼〉
 をまず思いました。150番歌の〈沈黙のおんなに凭りかかられてみるみる石化してゆく樹幹〉
 も含めて塚本への返歌かオマージュなのかなあと。「老樹が匂う」って塚本のことなのかなと、
 ちょっと計算してみたら77歳ぐらいだから。「もうれつに」の所からは抵抗感や反発への意志
 を感じました。反戦歌とも体制に対する反発とか組み込まれていくものへの反発とかを感じま
 す。(真帆)
★塚本へのオマージュという見方はすばらしいと思います。本歌取りするってことは、そもそもオ
 マージュなんですものね。77歳の塚本は確かに老樹で、それでいて強烈な言葉の匂いを放って
 いた、私も塚本に吸い寄せられた一人だからよく分かります。ただ、そういうことも含みながら、
この一連は次々木の歌が出てくるので、表の意味としては書いてある通りに椎の老樹の姿として 読ん
でおくのもいいかもしれませんね。(鹿取)
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渡辺松男の一首鑑賞  151

2021-01-24 18:59:23 | 短歌の鑑賞
    ブログ版 渡辺松男研究 18 2014年8月
       【夢解き師】『寒気氾濫』(1997年)65頁~
       参加者:泉真帆、鈴木良明(紙上参加)、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
        レポーター:渡部 慧子 司会と記録:鹿取 未放
            

151 桐の花咲きしずもれるしたに来てどうすればわれは宙に浮くのか

       (レポート)
 「桐の花」の下。それは咲きしずもれる状態。そこに来た作者は「宙に浮く」てだてを思っている。咲きしずもれるという呪縛めいた空気感からのがれたいのか、あるいは高い桐の花の薄紫への思慕があるのか。思うにどちらでもなくてもっと他のこころもちかもしれない。こう思うのは「宙」という措辞によるのだろう。紫煙や高嶺の花などから想像される状態を越えたところに作者の思いはあろう。(慧子)


       (紙上意見)      
 本歌集は、1997年に上梓されているから、オウム真理教事件(1980年代末~1990年中期)の頃の時代も映しているだろう。主犯者麻原の空中浮揚が話題になっていたが、この歌も、それが背景にあっての歌だろう。桐の花の咲きしずもれる下で、宙に浮くことを揶揄しつつ、束縛から離れて自由になるとは、どのようなことかを考えている。(鈴木)


       (当日発言)     
★咲きしずもれるとあるので花はたわわに咲いているのだと思う。その下に来たときとても幻想的 になったのだろうと。作者は自分も浮いてみたいと真剣に思ったのではないかと。あの花のとこ ろに行って宙の中に同化していくことができないかと。(真帆)
★落ち着いた静かな所に来て、どうしたら桐の花に近づけるのかなと、希望でしょうか?(曽我)
★私は白秋の歌を思い浮かべてしまいました。〈手にとれば桐の反射の薄青き新聞紙こそ泣かまほ しけれ『桐の花』〉これは非常に繊細な歌で掲出歌とは直接関係ないですね。咲きしずもれると いうと、やはり満開で、辺りには誰もいなくて、その下で静かに瞑想している、どうしたら宙に 浮くのかと考えて。浮くことだけが目的で、例えば 花に近づく為にとか死者に同化する為にと かは考えなくて。(鹿取)


      (後日意見)
 「桐の花咲きしずもれるした」とはやはりそこだけ切り取られた異空間のようだ。時刻は書かれていないが、真っ昼間という感じを受ける。そこで〈われ〉は「どうすればわれは宙に浮くのか」を考えている。麻原彰晃が地下鉄サリン事件を起こしたのは1995年3月、逮捕されたのが同年5月、歌集『寒気氾濫』が出たのが1997年だから、宙に浮く行為への関心は麻原に触発されたせいであったかもしれない。しかし、それはきっかけに過ぎない。だから下の句が麻原を揶揄しているとは思わない。生真面目に、宙に浮く方法を考えている姿を読者である私は想像して少しおかしくなる。『泡宇宙の蛙』に「眠れざれば徹底的に薬罐見る 薬罐はいかにしてつくるのか」があるが、同じような追求癖の系列の歌に思える。ただ、掲出歌は異空間めいた場の提示がおもしろく奥行きのある歌になっているし、不思議な魅力を湛えた歌だ。(鹿取)

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渡辺松男の一首鑑賞 150

2021-01-23 18:33:08 | 短歌の鑑賞
    ブログ版 渡辺松男研究 18 2014年8月
       【夢解き師】『寒気氾濫』(1997年)65頁~
       参加者:泉真帆、鈴木良明(紙上参加)、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
        レポーター:渡部 慧子 司会と記録:鹿取 未放
            
  ◆文章中、塚本邦雄の「邦」の正字が出せませんでした。申し訳ありません。


150 沈黙のおんなに凭りかかられてみるみる石化してゆく樹幹

         (レポート)
 そこにいる「おんな」は「沈黙」のまま樹に凭りかかっている。沈黙がかろやかなたたずまいを見せる人もあろうが、そうでない場合もあり、精神のいきいきしていない人に凭りかかられると樹といえどもたいへんな圧迫かも知れない。沈黙の圧迫による樹幹の困惑や疲労を「みるみる石化してゆく」として、うつろう時をかたちにし、読者に示す。(慧子)

   
      (紙上意見)(2014年月)
 斎場の樹木に凭れて、故人を偲んでいる沈黙の女。凭れかかられている樹幹は、その嘆きの重さにたちまち石化していく。塚本邦雄の歌をベースに面白く表現している。(鈴木)


       (当日発言)(2014年月)   
★塚本邦雄の『水葬物語』に「革命歌作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ」が
 あります。ただのパロディではなく、対比して作っている。沈黙の女には何か重いものがあって
 それに凭りかかられるので何か固まってしまう歌だと思う。ただ、肝心なところを味わえていな
 いのですが。樹幹というのは、木の中の役割をきちんと言いたかったのではないか、根に続く樹
 幹であるよということ。語らぬものの沈黙の訴えによって動けなくなってしまったものをいいた
 かったのではないか。(真帆)
★塚本邦雄の第一歌集『水葬物語』の巻頭歌だから誰でも知っていますよね。塚本にとっても処女
 歌集の巻頭歌だから非常に思い入れがあるはずですし、元の歌の辛辣な批評意識とか苦さとかは
 周知のことだと思います。その本歌取りをするのだから、渡辺さんにも相当な覚悟とか思い入れ
 があるはずなんですけれど、私はもう一つこの歌が分からないです。真帆さんが言った「語らぬ
 ものの沈黙の訴えによって動けなくなってしまったもの」というのはそうなんだろうと思うし、
 鈴木さんの「斎場の樹木に凭れて、故人を偲んでいる沈黙の女」という解釈も、唐突に女が出て
 きたように思ったけど、なるほど一連の流れの中では故人と深いかかわりのあった女か、とも思
 うんですけど、作者の意図とか本質的な部分が自分ではつかめないでいます。(鹿取)
★国のことだったりしますか?「沈黙のおんな」でどこかの国を例えたり。(真帆)
★それは違うような気がする。この一連にいきなり外国への風刺とかは出てこないんじゃないか
 なあ。(鹿取)


         (後日意見)
 塚本は「革歌作詞家」を風刺しているが、この「沈黙のおんな」は風刺の対象なのか、鈴木さんのように故人を偲んでいる労るべき存在なのか。私は風刺の対象と読んだが、溶けてゆくピアノは「すこしづつ」で、石化する樹幹は「みるみる」だからスピード感が違う。この歌は塚本のパロディであり、何か滑稽味を狙った者なのだろうか。ちなみに、『寒気氾濫』の出版記念会に主賓として列席された塚本氏は、この歌については何も発言されなかった。(鹿取)
     
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渡辺松男の一首鑑賞 149

2021-01-22 17:30:55 | 短歌の鑑賞
   ブログ版 渡辺松男研究 18 二〇一四年八月 
      【夢解き師】『寒気氾濫』(1997年)65頁~
       参加者:泉真帆、鈴木良明(紙上参加)、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
        レポーター:渡部 慧子   司会と記録:鹿取 未放
            


149 会葬に生者のみ集いくるふしぎ空に級木(しなのき)の葉がひるがえる

          (レポート)
 会葬には生者しか来ていないようにみえて、それを「ふしぎ」だという。「級木」が高くに「ひるがえる」のは、死者が来ているのか、死者を誘っているのか。このように理由づけると歌がつまらなくなるのだが、「級木の葉がひるがえる」を心の必然として詠っており、死者をあたかも照らそうとしているようだ。3句の「空」の措辞も関係していようが、今ここにないものを思っている作者のこころが、一首のふしぎな明るさとなる。(慧子)


              (紙上意見)
 高木の級木の葉が翻る斎場で、作者の知人の(あるいは関係者の)葬式が行われた。故人と生前に、最後までつきあっていた人ばかりでなく、過去のつきあいであったOBなども参列しているのに、なぜか、それは生者ばかりで、死者はいない、という不思議。故人のことを偲ぶのであれば、関わりのあった人全部が、生者、死者を問わず、集まるべきだという気持ちが、そこはかとなく感じられる。(鈴木)
   

            (発言)      
★この一首、こう詠われていることが不思議です。普通、会葬には生きている人しか来ないわけで
 すから、目に見えない人々も集まり来るべきだっていうのが疑問として残った。その次の級木っ
 ていうのが、菩提樹、西洋級木というらしいですが、何でこの木なのか、この木でないといけな
 いからこの木を選んだのでしょうが、だからこの木に鍵があるんでしょうが、分かったような分
 からないような不思議な一首です。(真帆)
★生きていない人も来ているよ、ということを級木が翻ることで示している。(曽我)
★そうですね、純粋になぜ死者達はやってこないのだろうかという疑問と取ることも出来るけれど、
 曽我さんのいうように、実は死者たちも集っていて、その証として級木が翻っている、とも考え
られる。なぜ死者が来ないのかの疑問と取ると、級木に意味が繋がっていきにくいですね。葉が 
翻る歌は先月の鑑賞でもダンコウバイとかありましたよね。私は茂吉の「死にたまふ母」の冒頭 
の歌(ひろき葉は樹にひるがへり光りつつかくろひにつつしづ心なけれ)を思い出しましたが。 
あれはお母さんの重篤を聞いて急いで故郷に帰るところで、不安感とか焦燥感とかを象徴してい 
ると思うけど、ここで翻っている級木も何となく不穏な感じがする。死者達が集まっているざわ
ざわ感が葉を翻しているんだろうか、死者達の新しい死者を悼む気分がざわざわ感に繋がるんだ 
ろうか。(鹿取)
★評者が「『級木の葉がひるがえる』を心の必然として詠っており」と書かれているけど、どうい
 うことですか?(真帆)
★作者は会葬の場でいろんな景がある中でぱっと級木を捕まえたと思うんです。でもなぜ級木かは
 歌のできる現場で理屈では語れないと思うんです。直接級木が作者に響いたんだと思います。
  (慧子)

           (後日意見)
 岡野弘彦に「またひとり顔なき男あらはれて暗き踊りの輪をひろげゆく」(『蹌踉歌』)がある  から、「ふしぎ」は意図的である。(田村広志)

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