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かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男の一首鑑賞 206

2021-04-20 17:00:54 | 短歌の鑑賞
 渡辺松男研究 25(15年3月) 【光る骨格】『寒気氾濫』(1997年)86頁~
   参加者:石井彩子、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:渡部 慧子  司会と記録:鹿取 未放
    

206 暴風雨に錯乱をする竹の叢 一遍らかく踊りしならん

      (レポート)
 剛と柔を併せ持つ竹は、暴風雨にまさしく錯乱するかのごとくゆれているのだが、一遍らの踊り、つまり念仏踊りへと作者の思いは及ぶ。居住まい正しい座禅がある一方、一遍らの念仏踊りの衆生の手の振り、足腰の自由さなど風雨にゆらぎながら折れない竹の叢にかさねられたのだろう。念仏踊りの絵図を見た経験から、作歌上のこのような飛躍を楽しく思う。(慧子)


        (意見)
★作者はこの奥にあるものをみてらっしゃるのかなあ。この時代には元寇(げんこう)などの社会
 的背景があって、人々は不安にかられていた。(石井)
★「錯乱をする竹の叢」の形態から一遍の踊り念仏を想像する。何とか大衆が救われるように願っ
 た一遍は、一度念仏を唱えれば救われるんだよ、極楽浄土に行けるよと、貧しく文字も読めない
 人々に説いた。その教えを信じた人々が狂乱して踊った、その求めの懸命さとかエネルギーを暴
 風雨に激しく揺れ動く竹群のイメージに重ねている。それは雲雀の羽たたきの一心とか、少し前
 に出てきたキェルケゴールの神に真向かう真摯さとも通じると思います。(鹿取)


          (後日意見)
 食べることもままならず、正体もわからぬ外敵や病気にも襲われ、将来も見通せず、不安が蔓延する世の中、一遍上人と共に、仏の救いを求め、念仏を唱えながら踊り狂った人々。その姿を、荒れ狂う嵐にしだかれ揺さぶられる竹林に重ねる作者。南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏…「錯乱する」竹叢から、来世の幸せを願う多くの人々の念仏の声が湧き上がってくるようです。飛躍しすぎかもしれませんが、追い詰められデモ行進する人々、武器を持って侵攻するIS軍までが「錯乱する」竹叢のイメージに重なってきてしまいました。(T・H)

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渡辺松男の一首鑑賞 205

2021-04-19 20:00:22 | 短歌の鑑賞
 渡辺松男研究 25(15年3月) 【光る骨格】『寒気氾濫』(1997年)86頁~
   参加者:石井彩子、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:渡部 慧子  司会と記録:鹿取 未放
    

205 万緑に抜きいでてたつ岩に立ち狗鷲(いぬわし)か風に晒されて濃し    

       (レポート)
 中村草田男の〈万緑の中や吾子(あこ)の歯生え初むる〉によって、生命力の旺盛をいうとき、この万緑が圧倒的な存在感をもつ語となった。その万緑を抜けでるさまの岩に狗鷲がいて激しく風が吹く状態。晒すとは、日・光・風雨にあてるの意があり、布・こうぞなどを水・雪に晒して白くすることはよく知られる。狗鷲の本質的要素の強さや存在感を濃くする作用として「晒」すが意表をつく。私達が従来抱いていたものと逆の意味に用いて、言葉遣いが新鮮である。(慧子)   

          (意見)
★「晒す」は、この歌では内面を晒すとかいうときの晒すの意味ではないですか。万緑の中の岩の
 上に一羽でしょうね、狗鷲が風に向かって立っている、その存在感の濃さでしょうか。(鹿取)
★ 濃いというのは密度が高いというように受け取ったのですが。(曽我)
★そうですね、鷲って強くて紋章になるような、王者の風格を備えた鳥だから、圧倒的な存在感が 
 あるのでしょうね。(鹿取)
★孤高って感じですね。こういう風景、墨絵かなんかで見たことがあるような気がします。晒され
 ては何かちょっと屈折した感じですね。(石井)


      (後日意見)
 鹿取の当日意見で「鷲って強くて紋章になるような、王者の風格を備えた鳥だから」と言っているが、ツァラツストラが常に伴っている〈誇り〉の象徴としての鷲を思った方がよいかもしれない。 『ツァラツストラはかく語りき』の「より高い人間について」4では、ツァラツストラが「より高い人間」に「わが兄弟たちよ」と呼びかけ次のように言う。
   神さえももはや見ていない隠者の勇気、ワシの勇気をきみたちは持っているか?――中略―
   深淵を見る者、しかしワシの目をもって見る者――ワシの爪をもって深淵をつかむ者、そう   いう者が勇気をもっているのだ。――
 しかし、205番歌の上の句の「万緑に抜きでて立つ岩」の造形は当日の石井発言の墨絵のようだという印象は強く、確かに東洋的な景である。だから神と対峙し、神を捨てて超人を目指すツァラツストラとは違う要素も加味して鑑賞しないといけないのだろう、とも思う。(鹿取)

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渡辺松男の一首鑑賞 204

2021-04-18 15:05:27 | 短歌の鑑賞
 渡辺松男研究 25(15年3月) 【光る骨格】『寒気氾濫』(1997年)86頁~
   参加者:石井彩子、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:渡部 慧子  司会と記録:鹿取 未放
    

204 一心は虚空にありて雲雀とは囀りよりもしげき羽たたき

       (レポート)
 他念のないところの「一心」とは3句以下の雲雀のひたすらを言い、囀りの美しさに見落としがちな羽たたきをとらえている。日頃見るには死角や盲点があり、また一部分から全体を思いこんだり不完全さがある。ここで掲出歌のふところの大きさといえばいいのか、雲雀の一心のみならず、私達の目や気づきの不完全をも収斂させる。「虚空にありて」の措辞のたくみさがある。また、それを初句、2句に置く効果も見逃せない。(慧子)


       (意見)
★レポーターは「羽たたき」をどのように評価されているのですか?(石井)
★私達は囀りによって雲雀って気づきますよね。でも、この作者は羽たたきの方に重点を置いて、
 一般人はここを見逃していると作者が感じている点を評価しました。つまりそれは私達の不完全
 さを露呈していませんか。(慧子)
★この作者は自分の認識の優位性をひけらかしたりはしない人だし、そもそも自分と一般人という
 区別に優劣の概念が入っていて、「一般人はここを見逃していると作者が感じている」には賛成
 できません。「一心は虚空にありて」はどう解釈されますか?(鹿取)
★「一心」というのは言葉で説明できないことだからそのことを「虚空」と言った。(慧子)
★雲雀はのどかな春を告げる鳥と我々は思っているけれども、しげき羽たたきをしている、そんな
 生存競争を詠っているのかなと。生きる苦しみとか悩みといったものを作者が共感しているのか
 なと。(石井)
★わたしは結論は石井さんと同じです。「一心」とか「虚空」をレポーターと違ってもっと具体的
 にとりました。「一心」は「専念」もしくは単に「こころ」、「虚空」は「空」。雲雀は空にあっ
 て懸命に羽たたきをしている、それは囀ること以上だ。そういう雲雀の存在のありようというも
 のを詠っている。確かにわれわれは雲雀を囀りによって認識することが多いけど、それが不完全
 な見方だとか作者が思っている訳ではない。「虚空」は単に「空」というよりはるかに高いイメ
 ージがありますし、そこでの羽たたきってわれわれに見えないのは当然ですから。(鹿取)
★いや、こう歌い上げたときには作者の心には抽象的にものごとを捕らえようという気持ちが動い
 ているのではないの。それが上句に出ている。(慧子)
★下句はよく分かるが上句はさっきの鹿取さんの説明では違うような。上句は作者の動作ですよね、
 肉体的に作者がどのような状況だったのかを捉えた上で、雲雀の本質というか、生身の雲雀とい
 うものは激しい生き方をしているという歌い方になる。(石井)
★私は「一心」も「虚空」も主語は〈われ〉ではなく、雲雀だと思います。雲雀の懸命さというも
 のは囀りよりも羽たたきに顕著に表れているよと。(鹿取)
★上句がそういうことならわざわざ「一心」も「虚空」もいう必要がない。(石井)
★語順を替えたら歌はつまらなくなるけど、雲雀は虚空にあって、その一心というものは囀りより
 はしげき羽たたきにあらわれているよと。何ものにとっても生きるってそういうことだよねと。
 この後に出てくる一遍の歌とか思い合わすと、「一心称名」などを連想するけど、ここもそうい
 う「一心」だと思います。(鹿取)
★鹿取さんのいうこと聞いているとそのとおりと思うけど、でもその底に何かある。(慧子)
★慧子さんの言う歌の言葉の外に抽象的な何かがあるとしたら、さっきも言いましたが何ものにと
 っても生きるってそういうことだよねという、敢えて言えば共感だと思いますが。(鹿取)
★雲雀は囀りだけでは生きられなくて羽たたきが力になっている。(曽我)
★では、意見一致しませんけど、それぞれの鑑賞があるということで、次の歌に進みます。(鹿取)

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渡辺松男の一首鑑賞 203

2021-04-13 17:05:45 | 短歌の鑑賞
 渡辺松男研究24(2015年2月)【単独者】『寒気氾濫』(1997年)83頁~
   参加者:かまくらうてな、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:崎尾 廣子 司会と記録:鹿取 未放
            
  ◆欠席の石井彩子さんから、まとめ後にいただいた意見も載せています。
    

203 樹は内に一千年後の樹を感じくすぐったくてならない春ぞ

      (意見)
★一千年後という途方もない時間を木自身が感じ取っている。それをくすぐったいとしかいいよう
 がなかった。それだけでは歌にならないので最後に「春」と入れた。(慧子)
★この歌大好きです。春の成長期に、内から膨張していく感覚を木自身がくすぐったくてないらい
 って感じている。だから「春」つ付け足しでは無いです。樹齢何千年って木があるから、一千年
 後だってこの木はじゅうぶん生きているんですね。(鹿取)
★千年杉とかありますからね。その木の過去の一千年に思いを致すことはあるけど、先の一千年後
 を感じていると目を付けたところが素晴らしい。希望なんですね、これ。(鈴木)
★そうですね、樹齢三千年と言われると私なんかこの木は人間のどんな歴史を見てきたんだろうと
 思うけど、松男さんは樹木自身の未来を見ているんですね。(鹿取)


       (後日意見)
 一千年後とは人間にとって途方もない時間であるが、樹にとっては自然な時間単位なのかもしれない、春が来て動植物が蠢くころ、木もむず痒く、くすぐったい感覚を覚えるのであろう。成長してゆく木のおかしみのようなものが表現されて、いい歌です。(石井)
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渡辺松男の一首鑑賞 202

2021-04-12 16:44:57 | 短歌の鑑賞
 渡辺松男研究24(2015年2月)【単独者】『寒気氾濫』(1997年)83頁~
   参加者:かまくらうてな、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:崎尾 廣子 司会と記録:鹿取 未放
            
  ◆欠席の石井彩子さんから、まとめ後にいただいた意見も載せています。
    

202 生きている身熱ならん風の日を栃の冬芽がねばねば光る

       (レポート)
 「身熱」「ねばねば光る」とは樹液のようなものなのであろうか。風から「冬芽」を庇っているのであろう。自然と向き合っている木の一日一日を思う。木が内包している生命力を折に触れ現す木の不思議さが伝わってくる。(崎尾)


      (意見)
★「ねばねば」って視覚的なねばねばなのかな?(うてな)
★「ねばねば」は視覚だけじゃなく、「身熱」ってありますが木の生命力とかエネルギーを綜合し
 た形容なんでしょうね。(鹿取)


      (後日意見)
 木の内部の生命のいぶきをねばねば光ると視覚化して捉えているところがいいですね。(石井)

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