渡辺松男研究 25(15年3月) 【光る骨格】『寒気氾濫』(1997年)86頁~
参加者:石井彩子、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:渡部 慧子 司会と記録:鹿取 未放
211 存在ということおもう冬真昼木と釣りあえる位置まで下がる
(レポート)
存在について思惟を巡らすとき、又問いを発するとき作者にとって最も信頼できるのは木であろう。「木と釣りあえる位置まで下がる」とは、作者自身が木と対峙できるところまで下がるということだろう。そこで「下がる」だが、木の全景をとらえられるところまで後ずさりするの意味なのか、強風があろうともしっかりと動かない根の辺りまで身体を低くする「下がる」なのか、どちらだろう。位置とあるところから前者なのだろう。(慧子)
(意見)
★「釣り合う」というのが松男さんのキーワードの一つで、いろんな歌に出てきます。天国と地獄
が釣り合うとか、千年生きた木と今日死ぬ鳥が釣り合うとか詠われています。この歌も、釣り合
うというのが物理的な距離ではなくて、木という存在と〈われ〉が「いのち」として均衡を保て
ることかなと。(鹿取)
★おそらくそうだと思います。作者は大きな抽象的なことを思っていらっしゃって、存在として釣
り合う位置なんでしょう。(石井)
★思惟の深さなんですね。(慧子)
★「冬真昼」という季節と時間がそういう思惟に適しているのかしら。(石井)
★この間鑑賞したところでも「冬芽がねばねば光る」とか、冬でしたね。(鹿取)
★本当に裸形というのか、冬は裸になっているんですね。木に親和感を覚えていらっしゃるから、
木と同じだと。存在というと人間中心に考えがちだけど、この人はそうではない。(石井)
★どちらかというと木の方に基準を置いているのね、この人。(鹿取)
(後日意見)
鹿取の発言中の「天国と地獄が釣り合う」は内容的にまったく正確さを欠いていた。言及したかった歌は、次のとおり。(鹿取)
地獄へのちから天国へのちから釣りあう橋を牛とあゆめり『寒気氾濫』
釣り合えよ 今日死ぬ鳥のきょうの日と千年生きる木の千年と『泡宇宙の蛙』
参加者:石井彩子、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:渡部 慧子 司会と記録:鹿取 未放
211 存在ということおもう冬真昼木と釣りあえる位置まで下がる
(レポート)
存在について思惟を巡らすとき、又問いを発するとき作者にとって最も信頼できるのは木であろう。「木と釣りあえる位置まで下がる」とは、作者自身が木と対峙できるところまで下がるということだろう。そこで「下がる」だが、木の全景をとらえられるところまで後ずさりするの意味なのか、強風があろうともしっかりと動かない根の辺りまで身体を低くする「下がる」なのか、どちらだろう。位置とあるところから前者なのだろう。(慧子)
(意見)
★「釣り合う」というのが松男さんのキーワードの一つで、いろんな歌に出てきます。天国と地獄
が釣り合うとか、千年生きた木と今日死ぬ鳥が釣り合うとか詠われています。この歌も、釣り合
うというのが物理的な距離ではなくて、木という存在と〈われ〉が「いのち」として均衡を保て
ることかなと。(鹿取)
★おそらくそうだと思います。作者は大きな抽象的なことを思っていらっしゃって、存在として釣
り合う位置なんでしょう。(石井)
★思惟の深さなんですね。(慧子)
★「冬真昼」という季節と時間がそういう思惟に適しているのかしら。(石井)
★この間鑑賞したところでも「冬芽がねばねば光る」とか、冬でしたね。(鹿取)
★本当に裸形というのか、冬は裸になっているんですね。木に親和感を覚えていらっしゃるから、
木と同じだと。存在というと人間中心に考えがちだけど、この人はそうではない。(石井)
★どちらかというと木の方に基準を置いているのね、この人。(鹿取)
(後日意見)
鹿取の発言中の「天国と地獄が釣り合う」は内容的にまったく正確さを欠いていた。言及したかった歌は、次のとおり。(鹿取)
地獄へのちから天国へのちから釣りあう橋を牛とあゆめり『寒気氾濫』
釣り合えよ 今日死ぬ鳥のきょうの日と千年生きる木の千年と『泡宇宙の蛙』