かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

清見糺の歌の鑑賞 211,212 

2022-09-25 10:50:25 | 短歌の鑑賞
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                  鎌倉なぎさの会  鹿取 未放


211 ひんぱんにおくびがこみあげくるからにクリニックにゆくびょういんぎらい
      2003年3月作

 ここでいう病院は大病院のことで、クリニックは町の小さな医院だろう。麻酔管理をきちんとしてくれる町の病院なので苦痛は全くないと聞いて、痛いのが苦手な作者も胃カメラを呑む気になったようだ。げっぷがよく出るからポリープぐらいあるかもしれない、と考えていたようだ。


212 こときれしオルガンひとつむらきもにしずめて胃カメラのみにゆくなり
           2003年3月作

 オルガンは、臓器(オルガン)。二〇〇〇年に出た岡井隆の歌集『臓器(オルガン)』の影響だろう。「むらきも」はここでは「身体」くらいの意味で使っているが、本来名詞形はなく、「群(むら)肝(きも)の」の形で枕詞として使う語。臓器に心が宿っていると考えたことから、「心」にかかる枕詞。前年、耳下腺腫瘍で手術をした時、事前の精密検査で腎臓が片方萎縮してないということを知らされていた。「こときれしオルガンひとつ」とは、萎縮した腎臓のことだろうか。

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清見糺の歌一首鑑賞 24

2022-09-24 10:52:12 | 短歌の鑑賞
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改訂版24 〈宗教は阿片〉とぞさはさりながらわれは阿片を神と吸いたし
                  「かりん」95年1月号

 「宗教は阿片なり」という有名な言葉はマルクスが25歳の時に書いた『ヘーゲル法哲学批判序説』にある。しかし、この歌、直接には『死者の書』展を見た感想から生まれたようだ。「かりん」の同じ号に次のような二首が載っている。
チベットの空深ければ飛ぶ鳥に骨肉あたえて葬りせるかも
『死者の書』によれば初日がおもしろい解脱は性的陶酔に似て
 掲出歌は、この2首目の下の句「解脱は性的陶酔に似て」からの連想により、阿片を引き出しているのだろう。マルクスはそう言っているけれど、まあ、そういう難しい話は措いて、阿片がそんなに気持ちの良いものだったら阿片を神と共に吸ってみたいよ、というのだろう。階級闘争云々はさりげなくずらして、しかしちゃっかり彼らが否定した神を結句で登場させているところが、この歌の味なのだろう。
 ただ、1935年生まれの作者が(その頃の知識人のかなりの人々に共通するように)かつて共産党に入党し、紆余曲折を経て離党していることを考えると、内実の思いはそれほど単純ではなかったかもしれない。


         (後日意見)(2012年7月)
 この歌、〈宗教は阿片〉の阿片は比喩だが、下の句の阿片は阿片そのものを指しているのでそこにズラシがあり、解釈がしづらくなっている。〈宗教は民衆の阿片である〉はマルクスの言葉として知られているが、親友ハイネの「宗教は救いのない、苦しむ人々のための、精神的な阿片である」の借用らしい。それは措いて、またレーニンも同様のことを言っている。レーニンは言葉のみでなく宗教の弾圧を行い、教会を壊し、聖職者を処刑にした。当然行き過ぎであるが、言わんとするところは分かる。宗教は来世での救いを掲げることで、搾取される側にはこの世でどんなに辛くても忍従しろと説き現実世界での解決から目を背けさせる。逆に支配階級には、この世でわずかばかりの施しをすれば救済されると説き、搾取することに免罪符を与える。
 作者は共産党を離党しても、階級闘争の必要性まで否定していたわけではないのだろう。
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清見糺の一首鑑賞 210

2022-09-23 10:45:52 | 短歌の鑑賞
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210 それでもなおせかいはすてたものじゃない正義もとめて一〇〇〇万のデモ
             2003年3月制作

 支部で鑑賞の折「作者は参加されたのか、それとも傍観者だったのか」という意見が出た。それに対して異議が殺到、参加しなかったからといって傍観者だとは決めつけられないという意見で、私もそう思う。おそらく作者はデモに参加して久しぶりに連帯の思いを深めたのではないか。しかし、不参加だったとしてもこの歌にこもる真摯な祈りは伝わるだろう。
 サルトルの「アンガージュマン」という言葉が流行し、政治の世界へ身を投じることが問われた時代から遠く隔たってしまった。作者は六〇年安保を経験し、教員時代、選挙違反だと密告されて逮捕、拘留され、職場へ戻ってからも長い差別に耐えて生きた。政治に対して屈折した思いを引きずって長年生きてきた作者が、一〇〇〇万人のデモにどれだけ励まされたことだろう。
   
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清見糺の一首鑑賞 209

2022-09-22 10:51:46 | 短歌の鑑賞
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209 最強のならずもの国家アメリカもアラブのあぶらがなければはりこ
                   2003年2月制作

 ア音のつらなりが小気味よく、しかも苦い啖呵になっており、最後に「はりこ」と切って捨てる。この「はりこ」は言わずと知れた「はりこの虎」の略で、虚勢を張る相手をののしる言葉である。アラブの石油のお陰で、アメリカは最強国として世界に君臨しているので、アラブの石油が無かったら張り子のトラだよという。
 しかし、実はアメリカの原油生産量は世界有数である。一日当たりで比較するとサウジアラビアの八七七万バーレルに次ぐ第二位の七七一万バーレルである。自国の資源は最後までとっておいて、まずは外国のものからというさもしい根性が見え見えである。そのあたり作者の意識の外だったかもしれないが、作者がこの事実を知らなかったからといって、この歌の価値が落ちるとは思わない。
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清見糺の歌一首鑑賞 208

2022-09-21 12:03:16 | 短歌の鑑賞
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208 ビニールのあわつぶしてもつぶしてもつまらないのがじんせいである
2003年2月制作

 この歌も207番歌(かぜふけばウラシマソウのはなのさきつちにふれたりふれなかったり)と同時期の作で、同様の気分を歌っている。下句、ここまで言ってしまっては身も蓋もないという意見と、あえて言ったところにこの歌の見どころがあるという意見と、両方があった。私自身はやや後者よりの意見に傾くが、歌としての出来は下句の投げ出し方が見事な207番歌の方がずっと勝っているだろう。207番は、ウラシマソウという気味悪い植物の面白さ、その先っぽがぶらぶらと揺れて地面に触れたり触れなかったりする景色、そんな情景をぼんやりと長く眺めている〈われ〉の心の倦怠、そういう複雑な歌の作りになっているからだ。

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