かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 262

2024-05-21 09:17:48 | 短歌の鑑賞
2024年度版 渡辺松男研究32(15年10月)
    【全力蛇行】『寒気氾濫』(1997年)110頁~
    参加者:S・I、泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、N・F、
        藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:鈴木 良明 司会と記録:鹿取 未放
       

262 岩宿の地層断面に春日射し土やわらかく土にかさなる

    (レポート)
 岩宿は、赤城山の近くにある旧石器時代の遺跡で、それまでの「日本には旧石器時代はない(土器時代から)」という常識を打ち破った遺跡。天体に過去の時間の光が在るように、大地の地層断面に過去の時間が穏やかに積み重なっている。現在に過去の時間が露わに存在していることの不思議。(鈴木)


    (当日意見)
★関東ローム層なんですね。昭和20年代の初めに地元の古代研究をやっている人が発
 見して、これが旧石器の遺跡の第1号です。現在は群馬県立の岩宿博物館があって旧
 石器、マンモスなども一緒に展示されています。(N・F)
★相沢忠洋という人が発見されたんですね。(曽我)
★そうです。渡辺さんはこの岩宿博物館に勤められていたことがあるのかなと想像して
 います。(N・F)
★旧石器時代というと2万年くらい前って事ですね。(S・I)
★渡辺さんの下の句、層で地層が見えるそうですね。(N・F)
★断層の土って時代を重ねて固くなると思うのですが。(M・S)
★関東ローム層というのは富士山の噴火の砂ですから、柔らかいんです。(N・F)
★渡辺さんの歌は、旧石器うんぬんという知的なことは言わないで、下の句で土を
 うたっている。断層を見ているんだから土は固まって居るのかも知れないけれど、
 「土やわらかく」は当時生活していた人への優しい心寄せが言わせた言葉かもしれ
 ませんね。(鹿取)
★土が2回出てくるリフレインがよくて、春の日が射していて柔らかい土が重なってい
 る、いい歌だなあと思いました。(藤本)


    (後日意見)
 歌とは直接関係ないが、この(岩宿遺跡の)発見によって、それまで土器時代以前の日本列島に人類は居住していなかったとされた定説を覆し、日本にも旧石器時代が存在したことが証明された。旧石器時代は人類が日本列島へ移住してきた時に始まり、終わりは1万6000年前と考えられている。いつ人類が日本列島へ進出してきたかは分かっていないが、今のところ日本列島で最古の旧石器は出雲市の砂原遺跡から出土しており、12万年前のものとされている。(鹿取)

 
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馬場あき子の外国詠 328 トルコ⑨

2024-05-20 10:35:22 | 短歌の鑑賞
 2024年度版 馬場あき子旅の歌44(11年10月実施)
     【コンヤにて】『飛種』(1996年刊)P146~
     参加者:泉可奈・N・I、K・I、崎尾廣子、藤本満須子、
         T・H、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:T・H 司会とまとめ:鹿取 未放
                     

328 宗教が貧しさを苦とせざることトルコの旅に憩ひさびしむ    

    (レポート)
 このお歌には、私として、ちょっと異議がある。「宗教が貧しさを苦とせざること」とは、どのような内容を指しておられるのか、私には、ちょっと疑問である。現在の貧しさに対して、神への信頼が、彼等をして現状満足していると見られるのは、ちょっと疑問である。(T・H)


    (当日意見)
★老人達は穏やかな顔つきをしているのだろう。お金持ち国日本から来た自分のうしろ
 めたさだけではなく対象の老人たちをもさびしんでいる。満足していていいのかとい
 う歯がゆさがあるのかもしれない。作者は政治的に救う方法はないのかと思い、にも
 かかわらずトルコの旅に憩いを見いだしている自分をさびしむのであろう。(鹿取)


     (まとめ)
 レポーターが「宗教が貧しさを苦とせざること」という点に異議、疑問を呈しておられる点についてはもっともで、私(鹿取)も全く疑問が無いわけではない。私は信仰を持たない人間だが、若い頃はよく「宗教は結果的に現状を肯定し為政者にとって都合の良いものになるだけではないか」と葛藤したことがある。レポーターは信仰を持っている方なので「神を信じ信頼することが(特に政治的にみて)現状を肯定することになるというのは誤解だよ」と言いたいのだろう。レポーターの意見をもっと聴いてみんなで議論を深めたかったが、時間切れになったのが残念である。
 しかし上二句の断定の強さは、馬場の歌の作り方の特徴の一つで、こうは言いながら、おそらくT・Hさんの疑問も鹿取の疑問も、この歌にはおり込み済みなのだろう。下の句をみても、そういう含蓄をもっていると私には読める。(鹿取)
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馬場あき子の外国詠 327 トルコ⑨ 

2024-05-19 11:08:57 | 短歌の鑑賞
 2024年度版 馬場あき子旅の歌44(11年10月実施)
     【コンヤにて】『飛種』(1996年刊)P146~
     参加者:泉可奈・N・I、K・I、崎尾廣子、藤本満須子、
         T・H、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:T・H 司会とまとめ:鹿取 未放

                     
327 苦悩なき顔もて貧しき老爺たち夕べのチャイを道にゐて飲む

        (レポート)
 乾燥地帯ではチャイをよく飲む。貧しい身なりをした老爺たちが、チャイハナの縁台に座ってチャイを飲みながら四方山話に花を咲かせている。彼等にむしろ苦悩はいろいろあるだろうが暢気そうな顔をしておしゃべりを楽しんでいる。(T・H)


   (当日意見)
★苦悩ある顔だからこういっている。(泉)
★貧しいけれど精神的に豊かな顔をしている。(N・I)
★書いてある通りに読めばよい。(藤本)
★「苦悩なき顔」はねじ伏せた使い方。(鹿取)


      (まとめ
 もちろん苦悩はあるが、それを表に出して深刻そうな顔はせず、あくまで穏やかな顔つきをしているのだろう。だから作者は老爺たちの内面は承知の上で「苦悩なき顔」と詠っている。古文の「ゐる」は座る・しゃがむの意味なのだが、ここの「ゐ」はそれで、集まった貧しい老爺たちは道にしゃがむか座るかしてチャイを飲んでいるのである。あるいはレポートのようにチャイハナの縁台に座っているのかもしれない。(鹿取)

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馬場あき子の⑦外国詠 326 トルコ⑨

2024-05-18 09:17:50 | 短歌の鑑賞
 2024年度版 馬場あき子旅の歌44(11年10月実施)
     【コンヤにて】『飛種』(1996年刊)P146~
     参加者:泉可奈・N・I、K・I、崎尾廣子、藤本満須子、
         T・H、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:T・H 司会とまとめ:鹿取 未放
                     
326 木ぞ一つ立てると見ればアナトリアを耕せる家族暗くまどゐす

     (当日意見)
★曽我さんのレポートにある316番歌(神は偉大なりといひて瞑想に入りしとぞアナ
 トリア大平原の寂寞)に関連して読むとよく分かる。コンヤは古い宗教都市である。
  (藤本)
★豊かでないアナトリアで田畑を耕して宗教に支えられて暮らしている。(慧子)
★アナトリアを耕す過酷さを言っている。(崎尾)
★宗教画のようだ。(鹿取)


      (まとめ)
 ミレーの宗教画を思い出した。「まどゐ」は団らん。一本の木の下に集まって憩いをしている情景は静かだ。家族で寄り添って、おそらく貧しい暮らしを営んでいる姿が「暗く」と写ったのだろう。木を一本ではなく一つと表現しているのも面白いが、一つの木を詠うことによって、かえってアナトリアの大地の広さが見えるようだ。(鹿取)

   

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馬場あき子の外国詠 324、325 トルコ⑨

2024-05-17 10:37:08 | 短歌の鑑賞
 2024年度版 馬場あき子旅の歌44(11年10月実施)
     【コンヤにて】『飛種』(1996年刊)P146~
     参加者:泉可奈・N・I、K・I、崎尾廣子、藤本満須子、
         T・H、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:T・H 司会とまとめ:鹿取 未放
                     

324 トルコタイル陽をうる時の美しさ見上げゐてここに斃れしいもうと

      (当日意見)
★妹さんは美に殉じた。(慧子)


      (まとめ)
 妹さんが亡くなられた神学校は彫刻が美しいことで有名で、それ故に現在は彫刻博物館になっているそうだが、もちろんブルーのタイルも美しいに違いない。タイルを見上げていて斃れたというのは作者の想像か、それとも同行者がそう伝えてくれたのか。いずれにしろ「斃れしいもうと」と体言止めにして結句に万感を込めている。(鹿取)


325 水涸れし瞑想の泉に膝つきてかの日いもうとがみしものを見む

     (レポート)
 今、瞑想の泉には水が無い。そこで先生は、その淵に膝を付き、いもうと様が、かつての日に見ようとされたトルコタイルの美しさを仰ぎ見ようとされておられる。そこにはいもうと様への鎮魂の感情も流れている。(T・H)


     (当日意見)
★「膝つきて」で鎮魂の気持ちを表している。(慧子)
★亡くなった方はタイルの美しさだけに見ほれていたのだろうか。もしかしたらタイル
 の向こうにトルコの歴史、民俗、政治等さまざまなもの、宗教的な人間存在とは何か
 を見ていたのではないか。何と言っても場所は「瞑想の泉」なのだから。と、作者が
 思ったかどうかは分からないが、少なくとも今作者は、眼前に見える建物や風景の美
 しさだけを見ているのではない。「見む」は意志であるから、作者はいもうとが見て
 感じたことの追体験をしようとしている。(鹿取)

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