かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

馬場あき子の外国詠 77

2024-08-12 14:21:17 | 短歌の鑑賞
 
 2024年度版 馬場あき子の外国詠9(2008年6月実施)
    【西班牙 2 西班牙の青】『青い夜のことば』(1999年刊)P52~
     参加者:N・I、M・S、崎尾廣子、T・S、藤本満須子、
       T・H、渡部慧子、鹿取未放
    レポーター:藤本満須子 まとめ:鹿取未放

  ※この項、『戦国乱世から太平の世へ』(シリーズ日本近世史①藤井譲治)・
   『ザビエルとヤジロウの旅』(大住広人)・講談社『日本全史』等を参照した。


77 日本史の粛然とせる失念に影のごとザビエルに添ひしヤジロー

       (レポート)
 ヤジロー=アンシロー(弥次郎):生没不詳、薩摩の人。殺人の罪を犯しマラッカに渡りそこでザビエルの教えを受け受洗。1549年、ザビエルを案内し鹿児島に上陸、各地を伝道、のち迫害を受け行方不明。
 作者はスペイン、マドリッドに降り立ち、そこでまず歌った内容ははるか16世紀に遡る。ザビエル、そして日本人のヤジローである。この歌の「日本史の粛然とせる失念」の主語は誰だろうか。主語がないときは作者であるという決まりから思うと失念しているのは作者に違いない。ヤジローとザビエルの出会いを考えた時、この歌の主眼は上の句の「日本史の粛然とせる失念」にあるのではないか。作者はスペインの旅で初めてヤジローという人物に思い至ったのである。その作者の感慨を「粛然とせる失念」とうたったように思うのである。犯罪者であるヤジローはザビエルに洗礼を受けキリスト者として再び日本に戻る。そしてザビエルに従って各国を巡礼したのであろうと想像する。(藤本)


     (まとめ)(2015年12月改訂)
 ヤジローは生没年もつまびらかでないが、修験道系の陰陽師だったという説や海賊だったという説もある。若い頃に人を殺し、薩摩に来航していたポルトガル船に乗って逃れ、マラッカでザビエルに遇い、ゴアの神学校でポルトガル語とキリスト教を学んだ。そこで日本への布教を目指していたザビエルはヤジローを通訳として伴い来日したのである。長崎でザビエルと共に布教活動をしていたが、一年後ザビエルは平戸に移りヤジローは郷里である長崎に残った。以後のヤジローの消息は分かっていない。一説には和冦となって中国に渡りそこで殺されたともいう。
 「日本史の粛然とせる失念」とは不思議な言いまわしだが、「日本史」が主語だろう。日本史が失念をした、それは「粛然とせる」失念だった、というのだ。つまり「粛然とせる」は日本史の韜晦を遠回しにいっているのではないか。かしこまった日本史にはアウトローであるヤジローの詳細は書かれていないが、実はいつも影のようにザビエルに寄り添っていたのだよ、というのだ。みなし子のようなザビエルと、ザビエルを慕うゆえに常に彼に付き従うヤジローとの関係に暖かい気分を呼び覚まされる。
 先月鑑賞した68番歌(歴史の時間忘れたやうな顔をしてモスクワ空港にロシアみてゐる)で、ロシアの歴史を思い返しながら、そしらぬ顔をしてロシアを観察している歌だった。そこにはロシアに対する思いやりとか敬意が含まれていたのだろう。この77番歌でも、日本史が棄て去ったヤジローを暖かく包んでいるようだ。
 ヤジローの殺人については、いろんな研究者が探求や考察を試みているが諸説入り乱れており、私が読んだかぎりではいずれも実証されたものとはいいがたい。ただ、現在の殺人の概念と当時の殺人のそれはかなり違うもので、仏教的な見方とキリスト教的な見方でも殺人の罪のありようはかなり違うようだ。数冊を読んだが、国外へ逃亡したヤジローが罪を問われて拷問にかけられたり、逃げ隠れした形跡はないし、日本に帰ってからも故郷の長崎でおおっぴらに布教活動をしている。親戚の者が身代わりになって罪を償い、帰国した頃にはもう清算されていたという説を説く研究者もいるが、どうであろうか。
 ところで、上にも書いたようにヤジローは和冦となって中国に渡りそこで殺されたという説もあるのだが、実は日本を去った後、中国への布教を目指したザビエルも1552年中国で亡くなっている。といっても、当時の中国は門戸を閉ざしており、本土への上陸が許されないまま上川島[現在の広東省台山市]で病死しているのだ。ザビエルの亡くなった地を慕ってヤジローは中国に渡ったのだ、とは誰も言っていないが不思議なゆかりを感じる。 (鹿取)

 
     (後日意見)(2018年8月)
 『馬場あき子新百歌』で米川千嘉子がこの歌について書いているので、「日本史の粛然とせる失念」に触れているあたりを一部抜粋する。(鹿取)

 キリスト教伝来は日本にとって画期的だったが、それを陰で支えた日本人を日本の歴史は思い出すことがなかった。スペインの海と空の青さの下で、馬場はそれを「日本史の粛然とせる失念」だと悲しみ、はるばると海を越え来ては再び日本に渡った一人の心を想う。〈逃亡者ヤジローの海灼けるほど熱き黙秘の塩したたらす〉ともうたうのだ。
 掲出歌は観念的な漢語を用いて構えの大きな上句にナイーブで素直な下句を付ける。「粛然とせる失念」は陰影に富んだ情をくっきりと明快に普遍化する表現で、馬場あき子に特徴的な抒情の文体の一つである。(米川)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする