ここ数年「○○女子」という言葉がよく使われるようなったが、
私はたまに聞く「愛され女子」という言葉が大嫌いだ。
ある条件をクリアした女性だけが愛される、
そうでない女性は愛されない、
というその線引きは一体どこにあるのだ。
で、誰が決めたんだ。
そんで、「誰に」愛されるのを前提にしてんだ。
それは一人なのか、大勢なのか。
処世術としての、「人に良い印象を残す」という
振る舞いや言葉遣いなどはあるだろうが、
それはあくまでも「術」な訳で、
その人の本質そのものではないし、
「愛」という世界ではそんな見掛け倒しの上っ面なことは何の意味もない。
「愛され女子」という言葉がなぜ大嫌いなのかというと、
その対として「愛されない女子」(そんなのいない)が存在することになるし、
それによって、先に言ったように
「愛されるためには条件がある」という式ができてしまうからだ。
「愛される」ということに貪欲にフォーカスするということは、
I want to be loved by ○○の「○○」に魂を売るようなものだ。
愛という言葉を使いながら、
結果愛からどんどんかけ離れるという、まさに本末転倒。
「愛される、されない」という受動態は、外側の人間に左右される。
けれど「愛する、愛さない」というのは自分の「意志」だ。
愛されたい、じゃなくて、愛すればいいじゃない。
『愛する女子』
うむ。なかなか良いんじゃない?
つづく(あんの!?)
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私はたまに聞く「愛され女子」という言葉が大嫌いだ。
ある条件をクリアした女性だけが愛される、
そうでない女性は愛されない、
というその線引きは一体どこにあるのだ。
で、誰が決めたんだ。
そんで、「誰に」愛されるのを前提にしてんだ。
それは一人なのか、大勢なのか。
処世術としての、「人に良い印象を残す」という
振る舞いや言葉遣いなどはあるだろうが、
それはあくまでも「術」な訳で、
その人の本質そのものではないし、
「愛」という世界ではそんな見掛け倒しの上っ面なことは何の意味もない。
「愛され女子」という言葉がなぜ大嫌いなのかというと、
その対として「愛されない女子」(そんなのいない)が存在することになるし、
それによって、先に言ったように
「愛されるためには条件がある」という式ができてしまうからだ。
「愛される」ということに貪欲にフォーカスするということは、
I want to be loved by ○○の「○○」に魂を売るようなものだ。
愛という言葉を使いながら、
結果愛からどんどんかけ離れるという、まさに本末転倒。
「愛される、されない」という受動態は、外側の人間に左右される。
けれど「愛する、愛さない」というのは自分の「意志」だ。
愛されたい、じゃなくて、愛すればいいじゃない。
『愛する女子』
うむ。なかなか良いんじゃない?
つづく(あんの!?)
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