AYUKO Soul Quest. "スピってるがフィジってる"

元気になってくれ。
自分にときめいてくれ。
そして愛を見つけてくれ。

男性の(個人的に)萌え禿げファッション

2017年07月22日 | 男性について、のあれこれ
まず自分を含む女性のファッションについて、
図々しく語ろうなんて思って色々考え始めたら、
「そもそもセンスってなんだ?」っていう
ディープなところに行ってしまい
(これがDEEP THINKING WITH AYUKO!)
穴に落ちて出られないので、


私が個人的に萌え禿げる男性ファッションについて
いたくカジュアル(ディープじゃない)に
語っちまえとなりました。


私が個人的に萌え禿げる男性ファッション。

それは。


シャツ&チノパン(夏はショート丈のものでも良い)


Tシャツではありません。
襟付きの綿のシャツです。
できれば長袖で、いい感じに腕まくりがしてある。
ボタンはトップから三つほど外す。
(それ以上外すとダメなの、個人的には。
逆に全部留めるのもダメなの。)

要は。

トラッドなアメカジ(死後?)にグッとくるわけだ。

上品かつ、カジュアル&セクシー。 

決め決めもダメだし、
モード系もダメなの。

何だろう、この「シャツフェチ」。

ひとつは。
私は男性の肘から手までのところにグッとくる。(後、お尻!)
だからTシャツでもいいんだけど、
シャツ着て、腕まくりの方がなーんかいいのよね。

で、分かった!今!

本来シャツはフォーマルというか、スーツと合わせるようなものだけど、
それをボタンを少し外して、腕まくりなんかしちゃって、
その「崩れ方」が私にとってはSEXYなんだーー!

分かりやすく言えば、

タキシードのシャツの上のボタンと蝶ネクタイのホック外しちゃってるような、よくあちらの映画で俳優さんがやってるようなアレよ、アレ!

おお、書きながら自分の傾向が分かってきたぞ。

簡単に言えば
雑誌SAFARIの世界なんだけど
(しかし、何であれの女性版がないんだろう)

カジュアル。
ナチュラル。
セクシー。

しかしカジュアルにも程があり(部屋着みたいになっちゃたらダメ)
ナチュラルにも程があり(突き詰めればヒッピーもしくはオウム真理教)
セクシーにも程があり(ナルシストになりかねない)


いや〜〜難しいッスネーーー


でも、個人的に言えばね、
いかにも「オシャレさん」な男性よりも(そういう業界の方でないかぎり)

狩に出て獲物とってこい!ギャートルズのでっかいお肉食べさせろ!

ですな。本音としては。
そこをまず抑えていただかないことには
どんなに素敵なファッションでも
グッとこないですわぁ。

その上で、さらっと「カジュアル・ナチュラル・セクシー」
をやってくれたら、




ギャラなしで歌ったげる





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オーガニックカフェの店員さんとか

2017年07月21日 | 女性であること、のあれこれ
NO OFFENCE!!!

私にもオーガニックな時代がありました。
20代後半から30ちょっとくらいの頃でしょうかね。
かなりスピっていた(スピリチュアルに傾倒していた)時代で
この私(お肉大好き)がベジタリアンやっちゃったり、
しまいにはノーメイクでボヘミアン(ヒッピー風)スタイルみたいな。

男友達に「あゆちゃんがノーメイクでびびった」くらいのこと言われたような。


しかし、飽きやすい性格なのか、単にお肉がやっぱり好きなのか、
その後は封印されましたが。(やったから満足)


そこでオーガニックカフェの店員さんとか。

AGAIN. NO OFFENCE!!!(ほんとかいな)


衣食住、いろいろなスタイルがあって当然であって。
自分が好き、心地よい、素敵と思うものを取り上げて
日々幸せに過ごそうと思うわけです。


そこで。

オーガニックカフェの店員さん・・・風(ふう)としよう。

彼女たちのスタイルも確立されている。
カフェとかオーガニックというのが流行りだして、
一般化したスタイルだと思うけど。

傾向としては。

1)髪の毛は頭のてっぺんでお団子にしている(ムーミンに出てくるミーみたいなやつ)

2)往往にしてノーメイクまたはノーメイクに近いメイク

3)体系を完全に隠してしまうゆるい服装。生地は綿か麻。

もちろん皆んなが皆んなそうしてるわけじゃなくて、
いろいろな応用編もあるわけですが。


さて、このスタイルの方々は何をプレゼンしているのか。

オーガニック&ナチュラルな感じ?
少女的な?(でもロリータとは違う)
お母さん的な?

で、私は問う。


「女」はどこに行ったんだ!?

「そういうところ」を出したくなくてそうしているのか。
「そういうところ」を敢えて隠して、勝負しようとしているのか。
「そういうところ」はもうどーでもいいのか。


ちょっと前に炊飯器のCMがあったのですが。
オーガニック風の夫婦が出てくるわけさ。
奥さんはミーの頭をして、ダボンとした綿か麻のチュニックワンピかなんかで、
もちろんノーメイクだ。
二人幸せそうに朝食を食べていて、
夫が珍しくご飯のお代わりをするという設定。
(なぜなら、その炊飯器でお米を炊くと美味しいから)


そして、私は問うた。

この人たち・・・やってんのかな

はい。そいういところばっかり気になります。

しかしながら、気をつけなければならない。
なぜなら、男性が女性にムムッとなる方向性は千差万別。
敢えてオーガニックスタイルの女性を好む男性は、
もしかしたら、

「このスッピンの女っ気のない女はどんな体をしていて、
ベッドではどうなるのだろう?」

と、いかにも女っぽい女性相手よりも燃えるのかもしれない。

「隠す」技術!

と、書いていて、今、私ハッとしましたわ。

「隠す技術」・・・・私にはない

そうかあ。
私って、あまりに分かりやすいんだわあ。
言ってみれば、超アメリカンスタイルだわあ。
まあ、それが私の性格に合ってるからいいんだわあ。


ってことで、
オーガニックカフェの店員さん(風)をひっ捕まえて、
あーだこーだ言う権利はまるでないのでした。


でもね。
(ヒソヒソ声)




どうしてそんなに隠すんだろう?




美魔女という種族の方々

2017年07月14日 | 女性であること、のあれこれ
「美魔女」をウィキってみたところ。

美魔女(びまじょ)は、光文社が発行するファッション雑誌『美STORY/美ST』による造語。
才色兼備の35歳以上の女性を指し、「魔法をかけているかの様に美しい」ところからきている。

ああ、そうだったんだ、「そもそもは」。


とにかく私が持つ「美魔女」というイメージがあって、
先日、とうとう「生美魔女」を見てしまった。
その方が実際に例の雑誌で美魔女認定されてるかは知りませんが、
「こういう人を世に言う美魔女なんだろう」という方だったわけだが・・・


うつく・・・しい・・・のか


正直・・・



コワい。


以前、エッセイストの酒井順子氏がご自身の本の中で、
美魔女について言及していらして、
彼女が使った形容詞が物の見事なものであった。

それは。


「おどろおどろしい」


夫と共に「こ、これだ!!!!それ、それーーーー!!」とウルトラ同感したものだ。


そして、生美魔女を見たあの日から、
なぜ「おどろおどろしい」」のか色々考えてみた。


彼女たちは確かにもっのすごく自分の身体に手をかけている。
その努力たるや、半端ないのであろうと思う。
女性がいつまでも己に手をかけ、美しくいようと心がけることは、
私自身もとても大切だと思っている。

が、しかし。

そんだけ自分を磨いて「美しく、若々しく」やってるのに、
なぜ「おどろおどろしく」なるのか。

考えた結果。

彼女たちが日々自分に手をかけて作り上げた美しさはあっても、
彼女たちが本来持っているであろう
内面にある、それぞれの持つ素敵で「自然な」「らしさ」というものが、
「外側の美への執念」と「他の女に死んでも負けてたまるか、という凄まじい競争心」に
完全に覆い隠され、
外に出るものは「非常に歪んだ、ほぼ自分に強制しているような異様に不自然な
ギラギラした自信満々風の空気」

が、結果「美魔女」を美魔女たらしめるとになってしまったのでは、と。


そもそもは「魔法をかけているかのように美しい」から来たはずの「美魔女」が、
いつどこで、履き違えられるようになったのか、
外側の美だけに執着したおどろおどろしい魔女の戦いになってしまった。


私が勝手に使った言葉ではあるが、
「執念」とか「競争心」というのは、
ある種のパワーになるのかもしれないが、
キラキラして美しい所には決して辿り着くことはなく、
逆にギラギラとして重く苦しい道のりとなると思っている。


友達とも色々話してみたが、要は、
「とっても不自然なんだよね」と。
彼女たちを「完璧」とさせている皮は非常に薄く、ナイーブで、
それが剥がれてしまったら彼女たちはガラガラと崩れてしまうだろう。


嘘っぽい自信満々の笑顔は
「自分に足りないと思っている」何かを隠すためのものだろうか。

外側の美だけをあまりに追求した結果、
「そうでもしないと、自分に価値なんて何もない」
というところまで行ってしまったのだろうか。

そもそも「美魔女コンテスト」は
(勿論雑誌の売り上げを上げるためである)
35歳から40代の、
これまで仕事、結婚、出産、育児なんかを経て
一生懸命やってきた「昔だったらただのおばさんたち」に
もう一度外に出て日の光を浴びてみませんか?
女性としての美しさを謳歌してみませんか?
というコンセプトだったのではないか。


それが素人のおばさんたちを闘わせることで
彼女たちを魔女にしてしまった…


だからどうなんだって感じなんだけど。


私は…

彼女たちを素敵だとは思えないなあ。





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「生きてるだけで100点満点」でどうでしょう?

2017年07月07日 | 生きていると
数日前に学生時代の友人が亡くなりました。
43歳でした。
彼は世界的なドラマーでした。
ちょうど1年前に、彼が来日中に倒れ、
彼との20年以上ぶりの再会は都内の病院でした。
あれが最後になっちゃった。
音楽の話なんかよりも、
最初の(恐い)奥さんとあったスッタモンダの話とか、
今の奥さんとの馴れ初めとかを話してくれました。

彼がドラマーとして成し遂げたことはすごいんだけど、
そんなことよりも、私の中に残るのは
学生時代の彼の笑顔だったり、
「Hey! Ayukoooo!」だったり(アジア女性大好き)、
周りの音なんかはどうでもよくて、とにかく子供みたいにドラムを叩く姿だったり、
そういうことなのです。

もちろん、彼がプロのドラマーとして成し遂げたこと、
私が想像もつかないような、あの厳しいアメリカの音楽業界で辿ってきた道、
それでも真っ直ぐに、彼のことだから偉ぶることもなく、
あの頃のJohnのままやってきたであろうこと、
それはそれは心から尊敬する。
本当に大変な世界のはずだから。

一昨日、彼が亡くなったことをFacebookで知り、
泣き、いろいろなことを思い出し、考えさせられた。
そして、昨日は苦しくてしょうがなかった。

何が苦しいって。



自分のダメさ加減に。



はい。
トンチンカンな方向に行ってしまいました。


彼の死によって、
人生は一度しかない。だからフルに生きよう。
自分が心からしたいことを一生懸命しよう。
だって、Johnはすごいんだから!


Johnはすごい。



私はすごくない。


私、ダメじゃん。



すごいって何でしょうかね。
富、名声、成功でしょうかね。


でも。
死ぬ前に思い出すのはきっとそこじゃない。
生きることは、きっとそこじゃない。
それらを求め、手に入れたり、手に入れられなかったりの経験があっても、
きっとそこじゃない。


昨日私は、一日自分を責め続けました。
「私、一体何やってんだよ!?」
「歌の方、どーすんだよ!?」
「ちっともいいお母さんじゃないじゃん」
「もっとやれよ、動けよ!」
「この生き方、ダメじゃん!Johnを見ろ!」


とまあ。
で、疲れてお昼寝しました。
午後は小学校の保護者会があって行きましたが、
まだ眠くて、先生の延々と続く「夏休みの過ごし方と宿題」についてのお話に、
「はぁ〜〜〜〜」とため息ついてました。(ごめんなさい)


そして、夕方くらいでしょうか。
ようやく自分を責めることを「やーーーーめた」できました。


こりゃ、疲れるわ。
何たって楽しくない。
そうすると笑顔も消え、
何たって、



老ける。




いやーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!


ブルーになった時、
「自分、ダメだ」病になった時、
いつも思い出す映画のワンシーンがあるのです。
それを昨日また思い出しました。


渡辺謙さん主演の「明日の記憶」という映画です。
49歳の熱血サラリーマンがある日突然、
いろいろなことが分からなくなり、
若年性アルツハイマーと診断され、
どんどん記憶が消えてゆく中、
妻(樋口可南子さん)と共に病と向き合ってゆくというお話。

映画のラストシーンの前くらいに、
主人公と妻が結婚する機会を作ってくれた
田舎の工房のオヤジさん(故・大滝秀治さん)のところを
主人公が訪ねるのです。
その時点で主人公はいろいろな記憶がない。
そして、オヤジさんは主人公にガツンと言うのです。


「生きてりゃいいんだ!生きてりゃ!」



大滝秀治さんがすごかった。
あの一言は誰にでも言えるわけではない。




そう。
私たちは「生きていれば」いいんだ。
どんな境遇になろうとも、
ダメダメになっちゃっても、
例え死を選びたくなるほど苦しくても、
とにかく「生きていればいい」のだ。
心臓が動いて、呼吸して、生きていれば、
もうそれでいいのだ。
そこまで、自分が「ただ生きていること」に
優しくなっていいのかもしれない。

それは、何かを諦めなければいけないとか、
何をやれ、これはダメ、とか、
生きている時に「起こること」「起こすこと」諸々、
原因結果、因果応報、などなど、
全部すっ飛ばして
ぜ〜〜んぶまとめて
とにかく生きてりゃいいんだ、生きてりゃ。
ただひたすらに。


そして、これを「きれいごと」と思わないこと。
まんま、受け取ること。




Johnの価値は
「ドラマーとしてやってきたこと、
残したものがすごい」と言うところにあるんじゃない。
JohnがJohnとして生まれ、生きたことだ。

私の中にプププって微笑んでしまう何かを残してくれた。


そして、究極的に言えば、
例え誰かの中に何も残せなかったとしても、
それでもいいのだ。


「生きてるだけで100点満点」でどうでしょう?


John, thank you dearly...
love love love