帯広畜産大学生協食堂。内部。帯広市稲田町。
2022年6月11日(土)。
帯広百年記念館を10時50分過ぎに出て、予定通り帯広畜産大学の学生食堂へ向かった。14時に「十勝ばんえい」が始まるが、その前のミッションとして、ここと帯広百年記念館埋蔵文化財センター見学の2つが残っていた。
帯広畜産大学には50年ほど前に訪れており、断片的な記憶が定着している。その回顧のための見学だ。
大学2年生だった1973年夏に、1年上の先輩2人から北海道旅行をした話を聞いたこともあり、国鉄の周遊券を使って一人で名古屋から青函連絡船経由で、まず札幌近郊江別市大麻の兄夫婦住む社宅で過ごした。札幌市内の有名観光地を回ったのち、札幌駅へ向かった。当時、カニ族といわれる学生の北海道旅行が流行していた。カニ族の名の由来は登山用のザックが当時は横長のキスリングが主流で、それを旅行用に転用していたからだ。私の場合はキスリングを持っていなかったので、愛用していたショルダーバッグを使用した。宿泊は駅の建物の横で野宿するのが多かった。そういう風景はテレビでよく放映されており、実際に札幌駅に行くと、多くの学生が野宿していたので、私も新聞紙を上半身を巻き付けて野宿した。
どこに行ったのか覚えている観光地は、一番人気のあった秘境といわれた知床だ。観光ツアーに参加して、知床観光船に乗り、知床五湖を回った。次いで摩周湖に行き、霧の無い摩周湖に感動した。
悲劇はここから始まったのだろう。釧路駅に着くと周遊券がなくなっていた。どこかで落としたのだろう。原因は寒さだ。摩周湖の最寄り駅で野宿したが、少々用意していた薄い上着では標高から考えて放射冷却して10度前後の寒さには耐えられなかった。駅前の電話ボックスに入り、新聞紙を燃やして暖を取ったが追いつかなかった。何とか夜を過ごして、釧路行きの列車に乗ったが、前に座った親子連れに遠慮して窓が閉められず、冷気をまともに浴び続けて、風邪を引きそうになった。列車に乗り込んだあとのどこかで失くしたようだ。
釧路駅で学割証明を使い、名古屋までの片道切符を購入した。途中下車はできるが、北海道周遊は諦めて、自宅へ帰ることにした。
午後遅く帯広駅で下車して、帯広畜産大学の学生寮へ泊めてもらうために向かった。私は自宅通学だったが、学生寮に住む知人から国立大学の寮生は全国の国立大学学生寮に宿泊できるという話を聞いていたからだ。公的に認められているわけではないが、学生の自治が認められていた当時では学生同士で認め合っていたのだろう。
バスを使ったのだろうが、帯広畜産大学に着き、学生寮へ向かい、寮生に学生証を見せたのだろう寮の部屋に案内された。部屋の壁は政治的なスローガンの落書きがあった。夕食をご馳走され、畜産大学らしくホルモンの鍋を食べさせてくれた。新鮮な内臓だと自慢していた。数人と話をしながら、酒を飲まされたが下戸の私は少し飲んだ程度だった。記憶はその程度だが、帯広畜産大学がどこあるのか正確な場所は今回事前にチェックするまで知らなかった。帯広百年記念館も市街地南の郊外だったが、さらに南の郊外にあった。
ナビの目的地を帯広畜産大学生協に合わせたが、針葉樹の森沿いの直線道路を進むと、進入路が狭い道路だったのでパスしてしまい、正門らしき敷地に着いて、学内案内図を確認してみた。
すると、やはり学食には先程の狭い道路から進入するほうが良いと分かり、戻って学生食堂前の一般外来者用の駐車場に着いた。食堂開店の11時を少し過ぎた時刻だったが、ほとんど車はいなかった。
建物玄関から入るとホールがあり、右にレストランがあったが学食ではなかったので、左の通路を進むと学食があった。利用客が少ない時間帯を狙うのがセオリーだ。入口のメニューは多くはないが、豚丼と数品をセットにして627円だった。
食べ終わって200mほど学生寮へ向かった。寄宿舎という名前は女子大みたいな名称だ。意図的に変更されたものだろう。外観は現代風で、50年前の建物は取り壊されたものと思う。見るからに管理されているようだったので、内部には入らなかった。
学食の道路対面に洒落た建物があったので、覗いてみると帯広畜産大学創立70周年記念会館「逍遥舎」という建物だった。2011年に、帯広畜産大学同窓会から寄贈された建物で、同窓会員,職員,学生が相互の懇親などの交流の場として使っているという。
11時50分ごろ、次の見学地である帯広百年記念館埋蔵文化財センターへ向かった。