マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

『菅原伝授手習鑑』を見る(その2)

2015年03月10日 | 映画・美術・芝居・落語

 「菅原伝授手習鑑」第五幕が開けると、そこは農家風の屋敷。幕開け前後のイヤホンガイドに耳を傾けると、

 「ここは、今の大阪府にある佐太で、左遷となった菅丞相が、宇多上皇の尽力により、罪を免れるのではないかと、一時逗留し、良き沙汰(さた)を待っていたので、後世“佐太(さだ)”と呼ばれるようになったとも伝えられています」と。又
「白太夫が長年仕えた菅丞相は、松・梅・桜を愛でていました。それ故、白太夫は三つ子に松王丸・梅王丸・桜丸の名を付けました。舞台庭では、その松が生い茂り、桜・梅が満開となっています。「配所の段」で菅丞相はその三つを入れた歌を詠んでいます。
 “梅は飛び桜は枯るる世の中に何とて松のつれなかるらん”と」 これは歌舞伎での話。歌の作者も含め、史実かどうかは??

 さて、幕が開け松王丸と梅若丸が妻を伴い一番乗りでやって来る。(後で明らかになるが、実は桜丸は既に到着していて、白太夫に重大決心を打ち明け、思いあぐねた太夫は氏神様にお参りに出掛けて留守)
 松王丸と梅王丸は、「車引」での遺恨そのままに、取っ組み合いの喧嘩を始め、重い俵を持って相手に襲い掛かる始末。揚句の果てに、太夫が大切にしてきた、桜の枝を折ってしまう。トンデモナイ事をしでかした事で我に返り、兄弟喧嘩はそこまで。丁度そこへ、氏神様から太夫が帰宅。桜が折れていることに気が付いた太夫は、はっとした様子だが、何故かそのことでは怒らずに奥へと消えてゆく。

 再び現れた太夫に梅王丸は、菅丞相のいる大宰府へ参る為め、暇乞いを願い出ると、それよりも行方不明の北の方を探し出し、お守する事こそ肝心と諭され、妻ともども屋敷を後にする。松王丸は時平公への更なる奉公のため、父に勘当を願いでると、白太夫は激怒し、彼の方から親子の縁切りを宣言し、松王丸を屋敷から追い出しまう。

 誰もいなくなった部屋に桜丸が、父に付き添われ、台に短刀を乗せて現れる。何事かと驚く妻八重に、桜丸は、逢引の手助けが原因となって菅丞相が左遷の身となってしまった責任を取り切腹するのだと、初めて妻に打ち明ける。驚き、嘆き、悲しむ八重は義父に何故止めて下さらないのかと、助命を哀願する。この場面での梅枝の演技に私は感情移入した。梅王丸に命じたと同じ役割を与えれば、切腹しなくても済むものをと、強く思った。
 しかし白太夫はこう語るのだった。
 「先ほど、氏神様で扇子三本で占いを立てた。引いた扇子に桜と書かれていれば、桜丸の切腹を思い止めよとの神意。しかし2回占い、2度とも桜の扇子ではなかった。帰宅して見れば桜の枝は折れていた。桜丸の切腹は神様の思し召しだと分かった」と。かく言われては八重も諦めるしかない。悲しみ深く、夫の自死を見守る前に倒れてしまう。
 夫には先立たれ、義父は大宰府へと旅立ち、夫の兄とその妻達は去り、一人残された八重に、深く重い寂寥が漂い、幕となる。(写真:責任を感じ切腹する桜丸を演じる菊之助)
 
 六幕の「寺子屋」では、菅丞相の子秀才の身代わりとなったのは
松王丸の子小太郎。松王丸は実はその為に梅王丸達と敵対しているかの如く振る舞って来たのだ。”大事をなさんが為にはまず味方から欺け”を実行した松王丸。自分の子を差し出したのみならず、身内から蔑れながら大志を成し遂げた”男の中の男”。実はと松王丸が語る場面で、妻は、すすり泣きを耳にし、ハンカチを取り出す人をも目にしたとか。この様な場面や人情に紅涙を絞られる日本人が、昔も今も多いのだろうか。私には、夫の死を嘆き悲しむ妻の心情の方により共感を覚えた。観劇に私情が入り過ぎて多弁。

 今日の一葉:3月10日撮影の、谷中「上聖寺」のミツマタ


上野英三郎博士とハチ公(その2)

2015年03月10日 | 身辺雑記

 今日3月9日(月)の東京新聞朝刊を見ると、「命日80年 やっと会えた」との見出しで、ハチ公の命日から八十年となる昨日行われた、”博士とハチ公像”の除幕式の様子が載っていた。私たちが出席しなかった記念式典や、やや聞き辛かった農学部長の挨拶も紹介されていたので、昨日のブログと重複しない部分を転載する。
 銅像は高さ約1・9メートル、幅1・8メートル。長期出張から戻った博士に尻尾を振ってじゃれつくハチ公と、それを笑い顔で受け止める博士の場面を再現している。上野博士の功績と、人と犬の心のつながりを知ってほしいと、東大の有志が2012年に発足させた「ハチ公と上野英三郎博士の像を作る会」が約1千万円の寄付を集め、制作した。
 8日の除幕式後に開かれた記念式典で、発案者の一ノ瀬正樹東大大学院教授(哲学)があいさつし「主人の死後、十年間も駅に通い、帰りを待ち続けた忠犬ハチ公の物語は世界でも有名なのに、当の飼い主のことはあまり知られていなかった。記念すべき日に形となりうれしい」と喜んだ。
 昨年7月から半年がかりで制作したという名古屋市在住の彫刻家、植田努さんは「幼いハチ公が博士に飛び付く、動きのある一瞬を表現した」と話す。ハチ公の写真は晩年の一枚しかなかったが、秋田県に通い、本場の秋田犬を見て研究したという。「私も動物が大好き。この像がいつまでも愛され、人間と動物の絆のシンボルになってくれたら、こんなうれしいことはない」
 全体として、私より優しい見方が綴られていた。

 今日の一枚:3月8日撮影の、富士神社の河津桜


上野英三郎博士とハチ公(その1)

2015年03月10日 | 身辺雑記

 今日は「菅原伝授手習鑑」の続きを投稿する予定だったが、都合により、忠犬ハチ公像の除幕式に変更します。
 今日3月8日(日)13時から、東大農学部構内で忠犬ハチ公像、正確には「上野英三郎博士とハチ公」像の除幕式が執り行われた。農学部内での除幕式のことを他人に話すと、逆に「渋谷の像は壊されるの」と聞き返されたが、さにあらず。新たな像が建てられたのだ。渋谷のハチ公が、渋谷駅で9年間主人を待ち続けた、その忠犬ぶりが注目を集めたが、新たな像は、上野博士のハチ公への深い愛情を主眼に置いていた。東大農学部が新たな視点でハチ公問題の見直しを世に求めたとも言える。
 開始20分前には到着し、見渡すと、主催者のみならず多数の報道陣が待ち構えていて、200名近い見物人のなかには、何故か、かのデビ夫人の姿もあった。毛並みの良さそうなおイヌ様も“見物”に参加していた。





 Wikipedia等によれば東京帝国大学農科大学教授だつた上野博士は大の愛犬家で、1924年に秋田犬を購入し、ハチ公と名付け大変可愛がり、ハチ公も博士になつていたが、25(大正14)年5月、博士は大学で講義中に急死。愛犬ハチは帰らぬ博士を10年近く渋谷駅で待ち続け「忠犬ハチ公」として世間に知られるところとなった、とある。

 式は13時丁度にまずは「ドボルザーク協奏曲12番 アメリカ」が4名によって演奏され、次いで生命科学研究科長にして農学部長古谷研氏が挨拶に立ち、概略次のように語られた。

 「先生の農業土木の業績は素晴らしく、その発展に尽くした者には”上野賞”が贈られるほどでした。先生の功績に鑑みて、一ノ瀬教授の発案でその像を建立しようと呼びかけたところ410名の方の賛同が得られ、1000万円以上の寄付も頂いて、今日の運びとなりました」と。

 私たちは序幕式なるものを初めて見た。像に掛けられた幕から伸びる紅白のロープを10数名の方が握り、司会者の掛け声もろともロープを引くと、幕は落ち、そこから博士とハチ公の像が姿を現した。博士と犬の親しい間柄が伝わってくる像である。
 東大には像は多いが、動物が登場する像は初めてとのこと。『東大ハチ公物語』とうい名前の本も出版されるようだが、ハチ公にあやかって東大を宣伝しているとも見える。待ち合わせの名所にはならないだろうが。
  今にして思う。待ち続けることが忠義なのだろうか。違う!恋しさ故に待ち続けたハチ公を忠犬と祭り上げた、当時の世相を私は危ういと思い至る。





      (序幕の瞬間)