物語はエルトゥールル号の機関科将校の任に当たる、海軍大尉ムスタファ(配役:ケナン・エジェ)によって語られる。彼は海難事故に遭遇しながらも救出され、生きて祖国の土を踏むことの出来た数少ない乗組員の一人。彼がトルコ側の主人公で、冒頭「この旅の果てに私を待っていた真心。その真心は現在に続く友情となった」とこの物語の全体像が語られる。(写真:ムスタファ大尉)
エルトゥールル号は1889年7月11日、イスタンブールを出航。オスマン大佐と618名の乗組員たちはオスマン帝国の栄光を取り戻すため、日本の天皇への返礼の旅へと出発していった。1887(明治20)年小松宮彰仁親王夫妻がオスマン帝国の首都イスタンプールを訪問した返礼の日本訪問だった。(写真:映画でにエルトゥールル号)
紅海とインド洋を乗り越え、予定を遥かに過ぎた1890年6月7日、漸く横浜に上陸。出航から既に1年近くが過ぎようとしていた。天皇への返礼を無事果たし、帰国の途につくはずだったが、乗組員がコレラに感染し、更に帰国が延びて9月15日、横浜を出航、和歌山沖を回る航路に向った。日本は台風が吹き荒れる季節だった。(写真:インド洋を越えた)
(赤印がオスマン帝国と日本)
そして運命の9月16日。熊野灘付近を航行中に巨大な台風に遭遇し、エルトゥールル号は、帆も舵も失い操縦不能に陥った。後はボイラーのみが頼りの航行となるが、座礁し進行不能に。ムスタファ―大尉はボイラーマンと一緒に火を燃やしていたが、ボイラーマン達に「皆に危険を知らせる為にここは去ってくれ」と言われ、無念の思いで去っていく。この場面が生者と死者を分ける運命の瞬間だった。大尉が去った瞬間に爆発は起こり、軍艦は大破し、多数の乗組員は船外に放り出された。大尉は生き残り、歴史の証言者となる。
台風に遭遇してから爆発に至るまでが見せ場の一つで、多分特撮を駆使しながらの映像だろうが、十分見応えにある画面が連続していた。
(乗組員たち)
暫しエルトゥールル号から離れます。 「伊勢五本店」というお酒卸問屋が千駄木3丁目にある。2年ほど前、そこの宣伝広告が入っていて、直ぐに行ってみると、入口の構えからして立派で、洋酒・焼酎だけでなく日本酒も名酒が多数揃えてあった。いっぺんにこのお店が気に入った私は、自宅から自転車で10分という至近距離にあることもあり、足繁く通い、〆張鶴などの吟醸酒や本醸造酒などを購入してきた。(写真:伊勢五本店入口)
つい先日ここのホームページを見ていると“中目黒に伊勢五本店 OPEN!!”との記述を発見し、目黒川沿いなので行くこともあるだろうと嬉しくなった。が、こちらのお店の名前に本店とあるのに違和感を覚えた。しかし良く調べてみると、このお店の正式名称が「伊勢五本店」で、その2軒目。本店や支店の区別があるのではないことを知った。
文京区千石に「伊勢五」という享保年間から続く米屋がある。建物は登録重要文化財の指定を受けている。さてこの「伊勢五」も「伊勢五本店」も同じ文京区内にあり、創業は共に江戸時代。何か関係があってもおかしくない。そこで「伊勢五本店」の方で「伊勢五」との関係を聞いてみたら「関係はありません」とにべもなかった。詮索・推理好きな私は勝手な推測をしている。根は一つだったが何かの事情で江戸時代に枝分かれしたのではないかと。次回はお米屋の「伊勢五」に聞きに出かける積り。
閑話休題。それはさておき、
”本店”で「〆張鶴 吟醸酒 純」(税込1620円)を購入し、4月2日の「源氏の会」の花見の席で皆さんに味わって貰うと、その中でSさんがいたく気に入って、「〆張鶴」を購入したいとのこと。6月の例会の帰りご案内した。白山上から浅草寿町行のバスを千駄木一丁目で下車し徒歩7分で、須藤公園の直ぐ上の「伊勢五本店」着。彼女は花見時と同じものと「〆張鶴 吟醸生酒」を購入し、飲み比べてみるそうな。
私は「獺祭(だっさい) 吟醸酒」の小瓶を購入しようと思っていた。最近あちこちで「獺祭 入りました」の文字を良く見かけるお酒だ。23%まで精米した「純米大吟醸」は720mlで5142円(税込)。ちょっと手が出ないお酒だが、その日はその隣に「獺祭 等外」という良く分からない瓶が並んで置いてあった。
そこで店員さんに聞いてみると「大吟醸と同じ山田錦を用いているのですが、好適米から外れた等外米を、それでは農家さんが可哀想と、旭酒造さんが購入して作ったお酒で、純米大吟醸と同じく23%まで精米してある獺祭です」とのこと。お値段をみると半値の2400円台。これは是非と購入し、その夜早速試飲して見た。香りが佳く、更に「〆張鶴 吟醸酒」より味が濃い感じだった。〆張鶴の方が私は好きだが・・・。
村上で〆張鶴を訪問したときに「伊勢五本店」の名を出すと部長さんは「沢山卸させて頂いています」と語っていた。まだまだ〆張鶴を味わうことが出来そうだ。
新協建設から送られて来たパンフレットにはエルトゥールル号遭難事故について簡単に書かれていて、6月4日の「訪ねる会」の当日、詳しい話が萩原さんから紹介された。
1890(明治23)年9月16日夜半、当時のオスマン帝国(その一部は現在のトルコ)海軍の軍艦エルトゥールル号は和歌山県串本町沖で台風に遭遇し、遭難・座礁後水蒸気爆発した。乗組員600余名のうち生存者僅かに69名、500余名が死亡・行方不明の大難にあった。
海に投げ出された乗組員のうち何人かは必死に紀伊大島にある樫野埼灯台下に流れ着き、数十メートルの険しい断崖を這い登って灯台にたどりついた。灯台守や村民は応急手当を行ったが、お互いの言葉が通じず、国際信号旗を使用して、遭難したのがオスマン帝国の海軍軍艦である事を知った。(写真:和歌山県串本町に建てられたエルトゥールル号殉難将士慰霊碑。Wikipediaより)
それからが大変で、通報を受けた大島村樫野の住民たちは、総出で救出・救助と生存者の介抱に当たった。貧しい村故食料の蓄えは僅かだったにもかかわらず、住民は食料や衣類などを進んで供出し、生存者たちの救護に努めた。この結果、樫野の寺、学校、灯台に収容された69名が救出され、紆余曲折をへて本国へ生還することが出来た。(写真:エルトゥールル号。Wikipediaより)
そこから話は突然、1985年に起こったイラン・イラク戦争に飛んだ。
1985年3月17日、フセイン大統領は48時間の猶予期限以降にイラン上空を飛ぶ航空機は、無差別に攻撃すると突如宣言した。この宣言後、イランに住む日本人以外の外国人は自国の航空会社や軍の輸送機によって順次イランから脱出していった。ところが、日本ではそうではなかった。ただちにJALにチャーター便の派遣を依頼したのだが、安全が保障されないことを理由にこの要請を拒絶された。200名に上る日本人のみが空港に取り残された。
そのピンチを救ってくれたのがトルコ航空の旅客機。自国民救援のための最終便を2機増やし、”企業戦士”とその家族ら215名の日本人はそれに分乗してイランを脱出した。タイムリミット前あと1時間15分だった。結果として、日本人は自国の政府や航空会社から見放されたこととなり、トルコ国の力によって救われた。萩原さんはこの点を強調した。
身振り手振りを交えての熱弁。胸が熱くなる話でもあった。トルコ政府の英断には、エルトゥールル号事件が語り継がれて来たことも背景にあるだろうと私は思った。
この話をより詳しく知ろうと、早速、映画『海難 1890』を借りて来た。昨年暮れに制作されたこの作品は、幸いなことに6月8日からレンタル開始だった。更には『海の翼』を借りてきて読み終えた。これらは次回以降のブログで。
代々木八幡宮への参拝を終えて、再集合すると再度萩原さんがマイクを握り、まずは東京ジャーミーの概略の説明があった。
東京ジャーミー・トルコ文化センターは2000年にトルコ本国から直接資材が送られ、職人も来日して完成された。オスマントルコ様式のモスク(礼拝所)で、一日に5回の礼拝が行われている大きなモスクのことをジャーミーと言い、今回の見学ではジャーミーの内部と礼拝の様子も見せて頂ける。その為女性の方は、ストールかスカーフを使用して下さい、場内は撮影禁止ですとの注意もあった。
更に話は、1890年に和歌山県串本町沖で起きたオスマン帝国(その一部は現在のトルコ)の軍艦エルトゥ―ルル号遭難事件の話に及んだ。ジャーミーのことも遭難事件のことも薄っすらとしか知らなかった。特に海難事件のことは大変興味深く聞き、その後事件について調べたりビデオを見たりしたが、そのことは後日のブログに回し、先を急ぐ。
一通りの説明を聞いて一行140名は徒歩でジャーミーへと向かった。歩くこと30分、ジャーミーは代々木上原駅そばにあった。遠くからでも寺院の高い尖った塔の建物が望めた。
ホール内に着席しトルコ人の広報担当と思しき方から寺院や礼拝の話だけでなくトルコに纏わる色々な話が聞けた。これが実に面白かった。
その話の幾つか。
その1 チューリップの花はオランダからの花と思われているが、実はトルコが発祥の地で、トルコからヨーロッパに伝わりそれが日本にもたらされた。”ヨーロッパの様な暗い土地であんなに明るい花が咲くわけがない”と彼は言った。
その2 日々の礼拝は1日に5回行われ、礼拝はメッカの方角を向き横一列になって行われる。その形は皮膚の色や民族の違い、貧富の差を超え人間は等し存在であるということを意味している。
その3 東京にモスクができたのは、ロシア革命(1917年)で難民となったタタール人の手によるもので、彼らは中央アジアのトルコ系の民族。シベリア、中国を経由し、日本にやってきた。イスラム教徒である彼らが日本で行ったことは、子供たちの学校やモスクを建てることだった。その学校の出身の一人に「外国人タレント」の草分的存在のロイ・ジェームスがいる。
その4 ラマダン(断食月)に因んで6月6日~7月4日まで、毎夜、イフタール(断食明けの食事)を提供する。ご希望の方はホームページから予約を。
話を聞いてから寺院内を見学した。12時からの礼拝に参加された方は10名程度。日本人と思しき人もいた。話の通り横一列になっての礼拝。この撮影は許されなかったが、場内撮影は許された。建物や場内の装飾は私が見たことの無い世界で、特にステンドガラスは色鮮やかだった、私は2階からも撮影した。
見学を終え、昼食のトルコ料理は鶏肉の料理。豚肉はダメだが他の肉は可なのだ。今回の昼食は認証されたハラーラ食品で作られているとのこと。食べやすい食事だった。ヨーブルトも頂いたが食塩が入っていて、妻は大変美味と語っていたが、私は甘いもののほうが好みだ。
昼食後、古賀政男記念館に回る予定だが、暑さのなかを歩いたせいか妻の調子が芳しくなくなり、夜は歌舞伎座への予定も考え、私達はここでリタイヤーした。
6月4日(土)、新協建設工業(株)による「東京ジャーミーと古賀政男音楽博物館を訪ねる会」が実施された。
新協建設による”訪ねる会”には何度か参加し、その度毎に今まで全く知らなかった土地やその歴史を知ることとなり、そのご案内が来るのを心待ていた。前回の「訪ねる会」から早や2年の歳月が流れ、応募する二人とも抽選に当った。 今回の訪ねる会の集合は、代々木八幡宮へと上る階段付近に10時。昼食代として1000円を支払うと、名札とイヤホンガイドを渡された。多くの人に話が通じる様にとの会社の温かい配慮(レンタルとのこと)。10時丁度オリエンテーションが開始された。主催者を代表して部長と思しき方が挨拶。それによると今回の参加者は140名の多きに上ったとのこと。通リを塞いでしまうほどの多数の参加者。
直ぐにマイクは萩原さんに渡された。彼女の博識に満ちた流暢な話は面白く、私達夫婦は彼女のファンになってしまっていた。神社見学を挟んでその前後に話は2度あり、最初はこの代々木八幡神社について。神社を見終わった後が東京ジャーミーの話。(写真:代々木八幡宮階段脇の碑)
(集いし多くの人々) (萩原さん) まずは代々木八幡宮の周辺の話から始まった。縄文海進の頃この辺りは海で、貝塚も発見されていて、1950(昭和25)年の発掘調査では多くの土器や石器とともに縄文時代の住居跡が発見され、古墳(代々木八幡遺跡)竪穴住居のレブリカが神社境内に展示されているとの事。
時は流れ、江戸時代は代々木村は広大な原っぱだった。神社直ぐそばにある代々木公園は明治時代には陸軍の代々木練兵場。第二次世界大戦敗戦後にはアメリカ軍に接収されワシントンハイツとなり、1967年(昭和42年)に代々木公園として開園。
(竪穴住居レプリカ) (訣別の碑) 八幡神社は格式は高くないが、村人達の信仰を集め、暮れには村人たちが寄り集まり餅をつくなど、村民の象徴的存在で、言うなれば村の鎮守の神様だった。初詣・秋の大祭には大勢の人達で非常な賑わいを見せるそうな。(写真:社殿)
練兵場が作られるに際し、村人は住んでいたところを追われた。その時の訣別の思いが神社境内の碑に刻まれています!反権力的立場を明確にする萩原さんはここで言葉を強めた。(上右の写真)
その話を聞いてから神社へ。大木のうっそうと生い茂る、森閑とした、小高い森の中に神社はあった。鳥居をくぐって応神天皇を首座とする神殿にお参り。竪穴式住居のレブリカもあった。
新婦が日本人・新郎が外国人という組み合わせの結婚式も行われていた。国際色も同居していた。
(渋谷区指定保存樹林 第1号) (その樹林)