最近ちょっとお洒落に目覚めたかな…春かなぁ…と心楽しく思っていたら、またもとに戻ってしまったノエルを見て谷川店長は心配そうに亮に訊ねた。
あいつ…元気ないなぁ…失恋かぁ…?
まさか西沢の恋人に手を出して気まずいことになってる…なんてことは亮の口からは絶対に言えない。
ちょっとトラブルがあって…相手は気にしてもいないんだけど、本人が気に病んじゃって…と無難に答えておいた。
自業自得と言えばそれまでだが…早番で上がっても寂しそうにひとりで亮の家に帰って行く後姿を見て、亮も何となく胸が痛んだ。
西沢のマンションをちょっとだけ見上げて溜息を吐きながら通り過ぎる。
そんな毎日が続いていた。
何時か出て行かなければならない時が来ると覚悟はしていたものの…まさか自分が西沢を裏切るようなことを仕出かすとは思ってもいなかった。
悲しくて…申し訳なくて…寂しくて…惨めで…前を向いて歩けなかった。
西沢の部屋のある方をチラッと見上げて…その後はまた俯いたまま通り過ぎようとした。
「ノエル…。 」
滝川の声がした。
振り向くと笑いながら手を振っていた。
「この間305号に越してきたんだ。 ちょっと寄って行かないか…? 」
滝川はノエルの肩を押すようにして自分の部屋へと案内した。
西沢の部屋より少し小さめの手入れの行き届いた小綺麗な部屋だった。
家財道具が少ないので広さの差はあまり感じられない。
僕の仕事場はスタジオだからね…紫苑とこほど部屋数は要らないんだよ。
そう言って楽しげに笑った。
「この部屋の合鍵…。 ノエルにも渡しとく…。 何処へも行けなかったら…ここへ来い…必ずだぞ…。
誰にも内緒で行方不明になるなよ…。 」
驚いて見つめているノエルの手に滝川は合鍵を握らせた。
「おまえに何かあったら紫苑が悲しむからな…。
心配してるぜ…紫苑…。 毎晩ちゃんと…おまえの分まで飯作ってさ…。
朝…残った飯を溜息吐きながら喰ってる。
まるで帰ってこない恋人を待つ女って感じ…。
あの紫苑がって笑っちゃうけどまさにそれ…。
紫苑が全然気にしてないって言ってるのにどうして帰らないんだ?
おまえは確かに馬鹿をやったけど…ありゃぁ半分は輝の責任だし…少しばかり浮気癖のある紫苑自身にだって責任があるんだぞ。 」
滝川が解せないとでも言いたげな顔でノエルを見た。
だって…とノエルは洟を啜った。
「紫苑さんみたいな優しい人にひどい思いさせて…どの面下げて帰れる…?
いくら僕が恥知らずでも…恩人を裏切って平気じゃいられないよ…。
それに…いつかは…あの部屋から出て行かなきゃならなくなる。
いま戻っても…紫苑さんの傍にいつまでも居座るわけにはいかない…。
また居場所を失うなんて…そんな哀しい想いは…何度もしたくないもん。
だから…あそこには…もう僕の居場所はないんだって…そう想うことにしたんだ…。 」
僕の居場所…四年間…求め続けてやっと見つけた束の間の安息…紫苑さん…。
滝川にはノエルの心の咽び泣く声が聞こえるような気がした。
「あのなぁノエル…それじゃぁ輝の思う壺だぜ…。
輝は…普段は優しくて面倒見のいい女だけど…多少嫉妬深いとこあってな…。
紫苑の傍からきみを追い出すくらいのことは手段選ばず平気でやる。
だからきみも平気な顔して紫苑の傍に居据わったらいいんだ。 」
ノエルが眼をパチクリさせた。
輝さんの嫉妬…どうして…? あれは…ただのお遊びじゃないの…?
「まぁ…とにかく…何があっても紫苑はおまえを追い出すようなことは絶対しないから…。
居場所がなくなるなんて…無用な心配してないで…出来るだけ早く紫苑のところへ帰るんだぞ。」
滝川にそう諭されても…はいそれじゃあ…と西沢の部屋へ直行する気にはなれなかった。
何となく亮の家へもそのまま帰る気が失せて…とぼとぼと駅前の方へ戻っていった。
ブランカの窓際…いつも西沢が好んで座る席へノエルは腰を下ろした。
元気ないわねぇ…大丈夫…?と注文を聞きに来た悦子が心配そうに訊ねた。
平気…と答えながらちょっとだけ笑ってみせた。
カレーを頼んだ…。食欲なんてないけれどそれなら食べられるかもしれない…と思った。
梅雨時に食欲のなくなる亮がよく食べていたから…。
ノエルの席へ注文の品を運んだ後…悦子は亮にメールを送った。
なんか…めちゃめちゃ落ち込んでるわ…。
いま…カレーつついているけど…全然食欲ないみたい…。
かろうじてひと口ずつ水で流し込むように飲み込むだけで、一向に中身の減らない皿を前に溜息だけが増えていった。
不意に勢いよく扉が開いてサラリーマン風の若い男が飛び込んできた。
何処か席を探すわけでもなく、そのまま真っ直ぐ悦子のところまで歩いていくと、何やら人を捜している様子で相手の人相だの風体だの細かに話し出した。
「とにかくバスケの選手のように背が高いんです。 顔も外国人みたいで…。
名前はショーン…或いはシオン…。
この近くのマンションに住んでいるって聞いています。 」
えっ…外人顔って…紫苑さんのこと…?
ノエルは男の方を見た。 見知った顔がそこにあった。
「三宅…何やってんの…? 」
男も…えっ…?と振り返った。
「高木…! きみこそ何してんの…? 」
何って…飯食ってんだけど…。
悦子がにこっと笑ってノエルを見た。
「丁度いいわ…。 西沢紫苑さんとこなら…ノエルの居候してる家だから…。
ノエル…それ食べたら…この人連れてってあげてね…。 」
…って…おい…それはまずいだろう…?
妙な成り行きにノエルは困惑した。
「助かったよ…。 あ…ゆっくり食べてくれ…。 」
三宅はほっとしたようにノエルの前の席に腰掛けた。
どうして…こうなるんだぁ…。
ノエルの顔が引きつった。
とてもじゃないがそれ以上カレーは喉を通らなかった。
静まり返った部屋の中に玄関の鍵を開ける音が響いた。
その音を聞いて…西沢はほっと安堵の息を吐いた。
玄関のところでノエルが今にも消え入りそうな情けない顔をして立っていた。
お帰り…ノエル…。
そう言って西沢は優しく微笑んだ。
ノエルの背後に…英会話塾のあの若い男の姿があった。
男はぺこんと頭を下げた。
「美咲の彼氏…三宅…。 紫苑さんに用事があるんだって…。 」
そう…どうぞ…あがって…。
西沢は快く三宅を招きいれた。
「夜分にお訪ねして申しわけありません。 あのメモを塾長に渡しました。
早急にお知らせしなければならないことがあると…これを預かって来ました…。」
三宅は西沢に封書を渡した。
封書の中には英語で書かれた文書と、それを翻訳したらしいたどたどしい日本語の文書が入っていた。
その文書のあまりの荒唐無稽さにさすがの西沢も絶句した。
滅亡を招いた罪ではるか太古に追放された者たちが時空を越えて現代にその姿を現し…再び滅亡を招こうとしている…というようなまったく信じ難い内容だった。
創造主の怒りと呼ばれ、かつて人類を滅ぼした恐るべき衝撃が原因で時空に歪みができ、瞬間的に過去と現代が繋がったために引き起こされた危機だという。
しかもそれは既にかなり古い時代から予言されていて、『HISTORIAN』は来るべき未来の危機に備えるために結成され、代々使命を語り継いできた。
元々の組織名は別の言葉で示されていたらしいが、差し障りが生じた時代があって変更されたらしい。
どう…解釈すべきか…。 西沢は判断に迷った。
すべてを…偽りだ…作り話だ…と言ってしまうには…今現在…起きている事件そのものが不可解すぎる。
かと言って手放しで信用できるような話でもない。
このまま上に報告したんでは西沢は頭がいかれたと思われるほどの代物だ。
「塾長さんは…人類に迫っている危機に注意して欲しい…とだけ…この文書に書いておられるが…具体的に何か僕にこうしてくれというようなことでもあるのかな…? 」
西沢は三宅にそう訊ねた。
三宅は少し考えていたが思いつかないとでもいうように首を振った。
「ご存知の通り僕は勉強会に関わって日が浅いので…詳しいことは何ひとつ知らないんです。 頼まれただけで…。
ただ…ひとつだけ…塾長と他の幹部が話していた内容に…すべては人の中に潜む…という言葉が妙に気になっています…。 」
人の中に潜む…それは…憑依を意味するのか…潜在を意味するのか…。
三宅がただの使い走りに過ぎないことがもどかしくて仕方がなかった。
以前には人を送り込んできたにも関わらず…襲われた後は直接会うことを避けてでもいるかのようで、三宅に居場所を聞いても、彼自身にもはっきりとは掴めないようだった。
あのメモも塾長の携帯に連絡を入れた後、向うから使いが来て、人伝に受け渡しをしただけだという。
塾長からの頼まれごとも全部…電話か人伝の間接的な指示に過ぎなかった。
謎はますます深まるばかりだが…取り敢えず何者かが人類の滅亡を企んでいるのだけは分かった。
どう…上に報告するべきかは…解決のつかない難問となりそうだったが…。
次回へ
あいつ…元気ないなぁ…失恋かぁ…?
まさか西沢の恋人に手を出して気まずいことになってる…なんてことは亮の口からは絶対に言えない。
ちょっとトラブルがあって…相手は気にしてもいないんだけど、本人が気に病んじゃって…と無難に答えておいた。
自業自得と言えばそれまでだが…早番で上がっても寂しそうにひとりで亮の家に帰って行く後姿を見て、亮も何となく胸が痛んだ。
西沢のマンションをちょっとだけ見上げて溜息を吐きながら通り過ぎる。
そんな毎日が続いていた。
何時か出て行かなければならない時が来ると覚悟はしていたものの…まさか自分が西沢を裏切るようなことを仕出かすとは思ってもいなかった。
悲しくて…申し訳なくて…寂しくて…惨めで…前を向いて歩けなかった。
西沢の部屋のある方をチラッと見上げて…その後はまた俯いたまま通り過ぎようとした。
「ノエル…。 」
滝川の声がした。
振り向くと笑いながら手を振っていた。
「この間305号に越してきたんだ。 ちょっと寄って行かないか…? 」
滝川はノエルの肩を押すようにして自分の部屋へと案内した。
西沢の部屋より少し小さめの手入れの行き届いた小綺麗な部屋だった。
家財道具が少ないので広さの差はあまり感じられない。
僕の仕事場はスタジオだからね…紫苑とこほど部屋数は要らないんだよ。
そう言って楽しげに笑った。
「この部屋の合鍵…。 ノエルにも渡しとく…。 何処へも行けなかったら…ここへ来い…必ずだぞ…。
誰にも内緒で行方不明になるなよ…。 」
驚いて見つめているノエルの手に滝川は合鍵を握らせた。
「おまえに何かあったら紫苑が悲しむからな…。
心配してるぜ…紫苑…。 毎晩ちゃんと…おまえの分まで飯作ってさ…。
朝…残った飯を溜息吐きながら喰ってる。
まるで帰ってこない恋人を待つ女って感じ…。
あの紫苑がって笑っちゃうけどまさにそれ…。
紫苑が全然気にしてないって言ってるのにどうして帰らないんだ?
おまえは確かに馬鹿をやったけど…ありゃぁ半分は輝の責任だし…少しばかり浮気癖のある紫苑自身にだって責任があるんだぞ。 」
滝川が解せないとでも言いたげな顔でノエルを見た。
だって…とノエルは洟を啜った。
「紫苑さんみたいな優しい人にひどい思いさせて…どの面下げて帰れる…?
いくら僕が恥知らずでも…恩人を裏切って平気じゃいられないよ…。
それに…いつかは…あの部屋から出て行かなきゃならなくなる。
いま戻っても…紫苑さんの傍にいつまでも居座るわけにはいかない…。
また居場所を失うなんて…そんな哀しい想いは…何度もしたくないもん。
だから…あそこには…もう僕の居場所はないんだって…そう想うことにしたんだ…。 」
僕の居場所…四年間…求め続けてやっと見つけた束の間の安息…紫苑さん…。
滝川にはノエルの心の咽び泣く声が聞こえるような気がした。
「あのなぁノエル…それじゃぁ輝の思う壺だぜ…。
輝は…普段は優しくて面倒見のいい女だけど…多少嫉妬深いとこあってな…。
紫苑の傍からきみを追い出すくらいのことは手段選ばず平気でやる。
だからきみも平気な顔して紫苑の傍に居据わったらいいんだ。 」
ノエルが眼をパチクリさせた。
輝さんの嫉妬…どうして…? あれは…ただのお遊びじゃないの…?
「まぁ…とにかく…何があっても紫苑はおまえを追い出すようなことは絶対しないから…。
居場所がなくなるなんて…無用な心配してないで…出来るだけ早く紫苑のところへ帰るんだぞ。」
滝川にそう諭されても…はいそれじゃあ…と西沢の部屋へ直行する気にはなれなかった。
何となく亮の家へもそのまま帰る気が失せて…とぼとぼと駅前の方へ戻っていった。
ブランカの窓際…いつも西沢が好んで座る席へノエルは腰を下ろした。
元気ないわねぇ…大丈夫…?と注文を聞きに来た悦子が心配そうに訊ねた。
平気…と答えながらちょっとだけ笑ってみせた。
カレーを頼んだ…。食欲なんてないけれどそれなら食べられるかもしれない…と思った。
梅雨時に食欲のなくなる亮がよく食べていたから…。
ノエルの席へ注文の品を運んだ後…悦子は亮にメールを送った。
なんか…めちゃめちゃ落ち込んでるわ…。
いま…カレーつついているけど…全然食欲ないみたい…。
かろうじてひと口ずつ水で流し込むように飲み込むだけで、一向に中身の減らない皿を前に溜息だけが増えていった。
不意に勢いよく扉が開いてサラリーマン風の若い男が飛び込んできた。
何処か席を探すわけでもなく、そのまま真っ直ぐ悦子のところまで歩いていくと、何やら人を捜している様子で相手の人相だの風体だの細かに話し出した。
「とにかくバスケの選手のように背が高いんです。 顔も外国人みたいで…。
名前はショーン…或いはシオン…。
この近くのマンションに住んでいるって聞いています。 」
えっ…外人顔って…紫苑さんのこと…?
ノエルは男の方を見た。 見知った顔がそこにあった。
「三宅…何やってんの…? 」
男も…えっ…?と振り返った。
「高木…! きみこそ何してんの…? 」
何って…飯食ってんだけど…。
悦子がにこっと笑ってノエルを見た。
「丁度いいわ…。 西沢紫苑さんとこなら…ノエルの居候してる家だから…。
ノエル…それ食べたら…この人連れてってあげてね…。 」
…って…おい…それはまずいだろう…?
妙な成り行きにノエルは困惑した。
「助かったよ…。 あ…ゆっくり食べてくれ…。 」
三宅はほっとしたようにノエルの前の席に腰掛けた。
どうして…こうなるんだぁ…。
ノエルの顔が引きつった。
とてもじゃないがそれ以上カレーは喉を通らなかった。
静まり返った部屋の中に玄関の鍵を開ける音が響いた。
その音を聞いて…西沢はほっと安堵の息を吐いた。
玄関のところでノエルが今にも消え入りそうな情けない顔をして立っていた。
お帰り…ノエル…。
そう言って西沢は優しく微笑んだ。
ノエルの背後に…英会話塾のあの若い男の姿があった。
男はぺこんと頭を下げた。
「美咲の彼氏…三宅…。 紫苑さんに用事があるんだって…。 」
そう…どうぞ…あがって…。
西沢は快く三宅を招きいれた。
「夜分にお訪ねして申しわけありません。 あのメモを塾長に渡しました。
早急にお知らせしなければならないことがあると…これを預かって来ました…。」
三宅は西沢に封書を渡した。
封書の中には英語で書かれた文書と、それを翻訳したらしいたどたどしい日本語の文書が入っていた。
その文書のあまりの荒唐無稽さにさすがの西沢も絶句した。
滅亡を招いた罪ではるか太古に追放された者たちが時空を越えて現代にその姿を現し…再び滅亡を招こうとしている…というようなまったく信じ難い内容だった。
創造主の怒りと呼ばれ、かつて人類を滅ぼした恐るべき衝撃が原因で時空に歪みができ、瞬間的に過去と現代が繋がったために引き起こされた危機だという。
しかもそれは既にかなり古い時代から予言されていて、『HISTORIAN』は来るべき未来の危機に備えるために結成され、代々使命を語り継いできた。
元々の組織名は別の言葉で示されていたらしいが、差し障りが生じた時代があって変更されたらしい。
どう…解釈すべきか…。 西沢は判断に迷った。
すべてを…偽りだ…作り話だ…と言ってしまうには…今現在…起きている事件そのものが不可解すぎる。
かと言って手放しで信用できるような話でもない。
このまま上に報告したんでは西沢は頭がいかれたと思われるほどの代物だ。
「塾長さんは…人類に迫っている危機に注意して欲しい…とだけ…この文書に書いておられるが…具体的に何か僕にこうしてくれというようなことでもあるのかな…? 」
西沢は三宅にそう訊ねた。
三宅は少し考えていたが思いつかないとでもいうように首を振った。
「ご存知の通り僕は勉強会に関わって日が浅いので…詳しいことは何ひとつ知らないんです。 頼まれただけで…。
ただ…ひとつだけ…塾長と他の幹部が話していた内容に…すべては人の中に潜む…という言葉が妙に気になっています…。 」
人の中に潜む…それは…憑依を意味するのか…潜在を意味するのか…。
三宅がただの使い走りに過ぎないことがもどかしくて仕方がなかった。
以前には人を送り込んできたにも関わらず…襲われた後は直接会うことを避けてでもいるかのようで、三宅に居場所を聞いても、彼自身にもはっきりとは掴めないようだった。
あのメモも塾長の携帯に連絡を入れた後、向うから使いが来て、人伝に受け渡しをしただけだという。
塾長からの頼まれごとも全部…電話か人伝の間接的な指示に過ぎなかった。
謎はますます深まるばかりだが…取り敢えず何者かが人類の滅亡を企んでいるのだけは分かった。
どう…上に報告するべきかは…解決のつかない難問となりそうだったが…。
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