倉橋家に保管されている古文書…それは古史古伝よりずっと後のもので、三宅の祖先が一族に伝わる古文書の内容を書き写して倉橋家に渡したというものだった。
倉橋側の古文書にはその経緯が前置きに記されており、本文が写しで、後書きに当時の倉橋の当主が、世に何事かない限りは伏せて置くようにとの指示を書き残していた。
「瑛子の亡くなりようを聞いて、私はこの文書を思い出しました。
国を追われた魔物が再び戻って動き出す時には、物の怪に取り付かれたようになる者が続出するという件を…。
瑛子を殺した作家も岩島さんも、旅先で正気を失ったようになり、他の方に助けられたと聞いております。
またご存知のように…あちらこちらで似たような現象が起きていて、何かの祟りではないかと噂が立っているところまであるとか…。
倉橋家が調べた限りでは決して祟り憑依の類ではありません。 」
またしても魔物…悪…追放された者たち…。
何なんだ…その正体は…? 人の中に潜む…魔物…人の中に潜む…悪…。
繋がる時空…潜在的な記憶…。
西沢の脳裏をいくつもの断片的データが駆け巡った。
人類を滅びに導くもの…と言えば…核戦争とか…自然破壊による自然災害……或いは彗星の衝突とか…。
「このような古文書をお見せするためにわざわざ御呼び立てしたのは申し分けないことですが…万一…御使者が三宅の文書に手を触れるようなことがあれば、御使者もおそらくは敵と見做され攻撃の的になるでしょう。
それよりは…たとえ写しでもこちらでお見せした方がよい…と思いましてな。
無用の敵は作らぬ方が動きやすいですからな…。 」
久継の言葉に西沢は頷いた。
ご高配痛み入ります…と西沢は礼を述べた。
なんの…たいしてお役にも立てぬが…と久継は笑った。
「時に御当主…。 例えば三宅のように過去に業使いであった場合…ふと先祖返りを起こすようなことは有り得るでしょうか…?
普段は呪文ひとつ使えないのに…正気をなくしたような時に突然力が甦ったりするようなことが…? 」
西沢は磯見のことを思い出していた。
先祖返り…ですか…久継は政直や田辺と顔を見合わせた。
「なきにしも…あらずですかな…。
宗主の一族のように人によって力の差はあるにせよ…ほとんど全員が能力者である…などというのは今の世ではかえって珍しいのです…。
原始の力がだんだんに薄れていっている証拠ですか…力を持たずに生まれてくる子が増えています…。
けれど…普段は何もできない子どもが…眠っている時にだけ力を発揮するなどということも稀にはあるのです…不思議ですが…。 」
理由は…久継にも分からないようだった。
おそらくは…眠ることによって何らかの抑制力が弱まり…潜在的な力が外へと解放されるのではないか…とのことだった。
「ただ…業使いの場合は…力の在る無しに関わらず…呪文などを覚えていなければ、端から力の使いようがないわけで…何の修練もなしに呪文を唱えるようなことがあるとすれば…それは他の誰かの力が働いているとしか考えられません…。
ですから…他から受ける影響が何もなく突然に力を使い出すとすれば…業使いよりはむしろ御使者のような特殊能力者の先祖返り…ということでしょうな…。 」
久継は業使いのひとりとして思うところを述べた。
そう言えば…あの作家も岩島も三宅を襲う際に使ったのはただの腕力でどちらの場合も呪文や特殊能力を使ってはいない。
と言うことは…彼等の先祖に限って言えば能力者でも業使いでもなく…彼等自身が潜在記憶の持ち主だと言うだけのことかもしれない。
帰宅したら…もう一度最初から考え直してみよう…と西沢は思った。
当主には丁寧に礼を述べ、引き続き協力して貰えるように要請して、西沢たちは倉橋家を後にした。
玲人から久々にモデルの話を貰ったノエルは、指示されたとおり画家のアトリエを訪ねた。
洋画家の先生で主に人物画を描かれている方ですよ…。
17~8歳くらいの男の子がご希望だったんですが…ノエル坊やの写真を見せたらひと目で気に入られましてね…。
表札には須藤…とある。
呼び鈴を鳴らすと奥さんらしい人がにこにこと笑いながら出てきた。
玲人に言われたとおり紹介状を見せた。
奥さんはずっとにこにこしたまま、ノエルを須藤のアトリエまで案内してくれた。
モデルが来たことを告げて奥さんが扉を開けると、中から油絵の具や筆洗液の独特な匂いがした。
待っとったよ…と言う声がキャンバスとイーゼルの向こうから聞こえた。
ノエルがきちんと挨拶をすると、須藤は今にも噴き出しそうな顔で、少しは成長したみたいだな…と親しげに言った。
「俺の顔を忘れるとは…よほど俺の授業をさぼっとったと見える…。 」
はぁ…? ノエルは探るように須藤の顔をじっと見つめた。
げっ…やべぇ…美術のぴかりんじゃないの…。
よくよく見れば…依頼主は中学の時の美術担当の先生だった。
須藤って名前だったっけ…ぴかりんとしか覚えてねぇ…。
「ま…いいや…古いことは…。
其処の出窓の下の木の椅子に腰掛けて窓の外見てくれないか…?
背の高い椅子だから落ちないようにな…。 」
須藤に言われたとおり、ノエルは普通の椅子の二倍はあろうかと思われる高さの椅子によじ登り出窓から外を眺めた。
手を下げていると何だか安定が悪いので出窓の張り出し部分に両方の腕を組んで乗せ、その上に自分の顎を乗せた。
須藤はその姿勢を見ていたが、その次には出窓より低い位置にある窓のところに行かせ、今度は身体を手前に向かせて、背もたれのない椅子に腰掛けた状態で、頭をガラスに凭せ掛けながらやや振り返り気味に窓の外を眺める様子を観察した。
「ノエル…それでいこう。 」
ポーズが決まると須藤はキャンバスに向かった。
須藤はどうやら木炭で下絵を描くようだ。
ノエルはそのままじっと動かなかった。
始めは…ぴかりんてそんなにすげぇ画家だったのかぁ…とか、授業さぼってばっかりだったもんなぁ…などと昔のことを思い出したりしていたが…外の花壇を見つめているうちに何となく西沢の仕事部屋のことを思った。
同じ仕事部屋でもこことは匂いが違う…。
明るさも…雰囲気もまるで違う…。
「ノエル…いい顔つきになったな…。 少しばかり味が出てきたぞ…。
悩んだり…痛んだり…いろいろあったってことか…。
中学の時のノエルとは大違いだ…。 何も考えてなかったよな…万事適当で…。
やんちゃで可愛い坊やではあったが…。 」
須藤がそんなことを言った。
へぇ~ぴかりんが僕のことちゃんと見てたなんて知らなかったよ…。
「おまえ…家を飛び出して西沢紫苑のところに居るんだってな…。
ジャンルは違うが…あの人の絵は俺も好きだな…。
じっと見つめてると絵の中に自分が居るような気がしてさ…。 」
そうなんだ…紫苑さんの絵が好きだって言う人は大抵そういう感覚で見てる。
雪景色なら寒さや静けさ…温かさまで感じるって…。
その場に居て積もった雪に足跡つけてるような気になるって…。
「西沢紫苑は若いわりに懐の深い人かも知れんな。
見る人の想いを受け止めて…温かく抱擁する…。 抱きとめられた想いは十二分に満たされる…。
そんな不思議な魅力を覚えるんだ…。 」
抱きとめられた…想い…。
絵の話だ…ノエル…ぴかりんは絵の話をしているんだよ…。
そう何度も自分に言い聞かせた。
三時間ほど仕事をして須藤は筆を擱いた。
明日も来られるか…とノエルに訊ねた。
ある程度絵が完成するまでノエルはしばらく須藤のアトリエへ通うことになった。
抱きとめられた…想い…。
ノエルはもう一度心の中でその言葉を繰り返してみた。
籐のソファの上に蹲って…。
抱きとめられているのに…満たされないのは…僕のせい…。
この前の夜に思いがけず西沢に悪態ついてしまったことをずっと後悔していた。
僕なんかどう考えたって…触れて貰えなくて当たり前だったのに…何であんなことを言ってしまったんだろう。
たとえ子供扱いでも…紫苑さんは本心から僕を可愛がってくれていたのに…。
紫苑さんに嫌な思いばかりさせてしまう…。
僕の想いを受け入れてくれたのに…僕が我儘だから…。
頭の中を駆け巡る映像…胸や腕に描かれる爪痕…。
痛みと滲み出る血…。
壊れちゃえ…! 壊れちゃえ…ノエル!
思わず爪を立てようとした時…西沢が背後から抱きしめた。
「ノエル…壊さないで…。 どんなきみも…僕には大切なんだよ…。
きみは何もしていない…悪くなんかない…。 我儘でもない…。
でも…どうしてもそうだと言うのなら…そういうきみも全部…全部好きだよ…。
心配ないよ…。 大丈夫だよ…。 」
哀しそうな眼で西沢を見つめる。 僕を壊して…。 壊して…。
西沢の腕がそっとノエルを抱き上げ…ベッドに運んだ。
それが望みなら…それしかないなら…僕の腕の中で…壊れていって…。
きみが壊れてしまっても…僕はきみを修復する…。
何度でも…諦めない…きみが壊れるたびに…僕はきみを癒し続ける…。
ひとつになろう…ノエル…。
愛してる…。
次回へ
倉橋側の古文書にはその経緯が前置きに記されており、本文が写しで、後書きに当時の倉橋の当主が、世に何事かない限りは伏せて置くようにとの指示を書き残していた。
「瑛子の亡くなりようを聞いて、私はこの文書を思い出しました。
国を追われた魔物が再び戻って動き出す時には、物の怪に取り付かれたようになる者が続出するという件を…。
瑛子を殺した作家も岩島さんも、旅先で正気を失ったようになり、他の方に助けられたと聞いております。
またご存知のように…あちらこちらで似たような現象が起きていて、何かの祟りではないかと噂が立っているところまであるとか…。
倉橋家が調べた限りでは決して祟り憑依の類ではありません。 」
またしても魔物…悪…追放された者たち…。
何なんだ…その正体は…? 人の中に潜む…魔物…人の中に潜む…悪…。
繋がる時空…潜在的な記憶…。
西沢の脳裏をいくつもの断片的データが駆け巡った。
人類を滅びに導くもの…と言えば…核戦争とか…自然破壊による自然災害……或いは彗星の衝突とか…。
「このような古文書をお見せするためにわざわざ御呼び立てしたのは申し分けないことですが…万一…御使者が三宅の文書に手を触れるようなことがあれば、御使者もおそらくは敵と見做され攻撃の的になるでしょう。
それよりは…たとえ写しでもこちらでお見せした方がよい…と思いましてな。
無用の敵は作らぬ方が動きやすいですからな…。 」
久継の言葉に西沢は頷いた。
ご高配痛み入ります…と西沢は礼を述べた。
なんの…たいしてお役にも立てぬが…と久継は笑った。
「時に御当主…。 例えば三宅のように過去に業使いであった場合…ふと先祖返りを起こすようなことは有り得るでしょうか…?
普段は呪文ひとつ使えないのに…正気をなくしたような時に突然力が甦ったりするようなことが…? 」
西沢は磯見のことを思い出していた。
先祖返り…ですか…久継は政直や田辺と顔を見合わせた。
「なきにしも…あらずですかな…。
宗主の一族のように人によって力の差はあるにせよ…ほとんど全員が能力者である…などというのは今の世ではかえって珍しいのです…。
原始の力がだんだんに薄れていっている証拠ですか…力を持たずに生まれてくる子が増えています…。
けれど…普段は何もできない子どもが…眠っている時にだけ力を発揮するなどということも稀にはあるのです…不思議ですが…。 」
理由は…久継にも分からないようだった。
おそらくは…眠ることによって何らかの抑制力が弱まり…潜在的な力が外へと解放されるのではないか…とのことだった。
「ただ…業使いの場合は…力の在る無しに関わらず…呪文などを覚えていなければ、端から力の使いようがないわけで…何の修練もなしに呪文を唱えるようなことがあるとすれば…それは他の誰かの力が働いているとしか考えられません…。
ですから…他から受ける影響が何もなく突然に力を使い出すとすれば…業使いよりはむしろ御使者のような特殊能力者の先祖返り…ということでしょうな…。 」
久継は業使いのひとりとして思うところを述べた。
そう言えば…あの作家も岩島も三宅を襲う際に使ったのはただの腕力でどちらの場合も呪文や特殊能力を使ってはいない。
と言うことは…彼等の先祖に限って言えば能力者でも業使いでもなく…彼等自身が潜在記憶の持ち主だと言うだけのことかもしれない。
帰宅したら…もう一度最初から考え直してみよう…と西沢は思った。
当主には丁寧に礼を述べ、引き続き協力して貰えるように要請して、西沢たちは倉橋家を後にした。
玲人から久々にモデルの話を貰ったノエルは、指示されたとおり画家のアトリエを訪ねた。
洋画家の先生で主に人物画を描かれている方ですよ…。
17~8歳くらいの男の子がご希望だったんですが…ノエル坊やの写真を見せたらひと目で気に入られましてね…。
表札には須藤…とある。
呼び鈴を鳴らすと奥さんらしい人がにこにこと笑いながら出てきた。
玲人に言われたとおり紹介状を見せた。
奥さんはずっとにこにこしたまま、ノエルを須藤のアトリエまで案内してくれた。
モデルが来たことを告げて奥さんが扉を開けると、中から油絵の具や筆洗液の独特な匂いがした。
待っとったよ…と言う声がキャンバスとイーゼルの向こうから聞こえた。
ノエルがきちんと挨拶をすると、須藤は今にも噴き出しそうな顔で、少しは成長したみたいだな…と親しげに言った。
「俺の顔を忘れるとは…よほど俺の授業をさぼっとったと見える…。 」
はぁ…? ノエルは探るように須藤の顔をじっと見つめた。
げっ…やべぇ…美術のぴかりんじゃないの…。
よくよく見れば…依頼主は中学の時の美術担当の先生だった。
須藤って名前だったっけ…ぴかりんとしか覚えてねぇ…。
「ま…いいや…古いことは…。
其処の出窓の下の木の椅子に腰掛けて窓の外見てくれないか…?
背の高い椅子だから落ちないようにな…。 」
須藤に言われたとおり、ノエルは普通の椅子の二倍はあろうかと思われる高さの椅子によじ登り出窓から外を眺めた。
手を下げていると何だか安定が悪いので出窓の張り出し部分に両方の腕を組んで乗せ、その上に自分の顎を乗せた。
須藤はその姿勢を見ていたが、その次には出窓より低い位置にある窓のところに行かせ、今度は身体を手前に向かせて、背もたれのない椅子に腰掛けた状態で、頭をガラスに凭せ掛けながらやや振り返り気味に窓の外を眺める様子を観察した。
「ノエル…それでいこう。 」
ポーズが決まると須藤はキャンバスに向かった。
須藤はどうやら木炭で下絵を描くようだ。
ノエルはそのままじっと動かなかった。
始めは…ぴかりんてそんなにすげぇ画家だったのかぁ…とか、授業さぼってばっかりだったもんなぁ…などと昔のことを思い出したりしていたが…外の花壇を見つめているうちに何となく西沢の仕事部屋のことを思った。
同じ仕事部屋でもこことは匂いが違う…。
明るさも…雰囲気もまるで違う…。
「ノエル…いい顔つきになったな…。 少しばかり味が出てきたぞ…。
悩んだり…痛んだり…いろいろあったってことか…。
中学の時のノエルとは大違いだ…。 何も考えてなかったよな…万事適当で…。
やんちゃで可愛い坊やではあったが…。 」
須藤がそんなことを言った。
へぇ~ぴかりんが僕のことちゃんと見てたなんて知らなかったよ…。
「おまえ…家を飛び出して西沢紫苑のところに居るんだってな…。
ジャンルは違うが…あの人の絵は俺も好きだな…。
じっと見つめてると絵の中に自分が居るような気がしてさ…。 」
そうなんだ…紫苑さんの絵が好きだって言う人は大抵そういう感覚で見てる。
雪景色なら寒さや静けさ…温かさまで感じるって…。
その場に居て積もった雪に足跡つけてるような気になるって…。
「西沢紫苑は若いわりに懐の深い人かも知れんな。
見る人の想いを受け止めて…温かく抱擁する…。 抱きとめられた想いは十二分に満たされる…。
そんな不思議な魅力を覚えるんだ…。 」
抱きとめられた…想い…。
絵の話だ…ノエル…ぴかりんは絵の話をしているんだよ…。
そう何度も自分に言い聞かせた。
三時間ほど仕事をして須藤は筆を擱いた。
明日も来られるか…とノエルに訊ねた。
ある程度絵が完成するまでノエルはしばらく須藤のアトリエへ通うことになった。
抱きとめられた…想い…。
ノエルはもう一度心の中でその言葉を繰り返してみた。
籐のソファの上に蹲って…。
抱きとめられているのに…満たされないのは…僕のせい…。
この前の夜に思いがけず西沢に悪態ついてしまったことをずっと後悔していた。
僕なんかどう考えたって…触れて貰えなくて当たり前だったのに…何であんなことを言ってしまったんだろう。
たとえ子供扱いでも…紫苑さんは本心から僕を可愛がってくれていたのに…。
紫苑さんに嫌な思いばかりさせてしまう…。
僕の想いを受け入れてくれたのに…僕が我儘だから…。
頭の中を駆け巡る映像…胸や腕に描かれる爪痕…。
痛みと滲み出る血…。
壊れちゃえ…! 壊れちゃえ…ノエル!
思わず爪を立てようとした時…西沢が背後から抱きしめた。
「ノエル…壊さないで…。 どんなきみも…僕には大切なんだよ…。
きみは何もしていない…悪くなんかない…。 我儘でもない…。
でも…どうしてもそうだと言うのなら…そういうきみも全部…全部好きだよ…。
心配ないよ…。 大丈夫だよ…。 」
哀しそうな眼で西沢を見つめる。 僕を壊して…。 壊して…。
西沢の腕がそっとノエルを抱き上げ…ベッドに運んだ。
それが望みなら…それしかないなら…僕の腕の中で…壊れていって…。
きみが壊れてしまっても…僕はきみを修復する…。
何度でも…諦めない…きみが壊れるたびに…僕はきみを癒し続ける…。
ひとつになろう…ノエル…。
愛してる…。
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