「とにかく…今回は何事もなくて助かりました。
暑い時ですけれど…森の中は過ごしやすいですし…ご年配の方に合わせてゆっくりした散策程度の探勝会に致しましたので…。 」
荘川から帰ってきた紅村がほっとしたように微笑んだ。
お疲れさまでした…と西沢は労を労った。
探勝会は年に三回~四回ほどあって、紅村の遊山仲間の俳句の先生や水墨画の先生がそれぞれの生徒たちのために企画する小旅行なのだそうだ。
勿論…自然保護の啓蒙を兼ねてのことだが、堅い話は一切抜きにして自然を心行くまで楽しんでもらい、そうすることで自然の大切さを実感してもらうのが目的だという。
「どのくらい効果があるものかは分かりませんけれど…無意味ではない…と僕も仲間たちも考えております…。 」
そう言って紅村は穏やかに笑った。
サイン会の仕事であちらこちら出掛けている桂には電話で話をしたが、紅村とは仕事帰りに待ち合わせた。
相庭一族の経営するカフェ・バーは相庭に知られたくないことでもない限り、西沢にとっては安全な場所と言ってよかった。
店のママは西沢の顔を知っていて西沢たちが来るとすぐに他の客から離れた席に案内してくれた。
何気ない荘川での話から始まって軽い話で談笑した後、西沢は例の注意情報について紅村に話した。
紅村や桂は族姓を成す能力者ではないので外からの情報は入りにくい。
その都度個人的に伝えておく必要があった。
「それにしても…その方のように力を感知できないというのは困りものですね。
不意打ちでもされたら防ぎようがありませんからねぇ…。 」
紅村は幾分不安そうに言った。
まったく…と西沢は答えた。
「それもおそらく…ひとりやふたりのことではありません。
紅村先生や桂先生は通常…単独で行動されるので十分注意してください。
今のところは襲撃対象を特定の組織に限っているようですが…。 」
西沢の忠告に紅村は素直に頷いた。
店のドアが開いて何人かの客がどやどやと入ってきた。
ママの案内で西沢たちとは離れた席に向かって行った。
おや紫苑…珍しいところで…とその中の誰かが声をかけた。
そちらを見ると金井が立っていた。
「久しぶり…相変わらずあれやこれやでご活躍だな…。
そちらは…紅村先生…ご歓談中にご無礼致します。 」
金井は挨拶を済ますと急に眉を顰めながら小さな声で囁くように話し始めた。
「実は…磯見がな…おかしくなっちゃったんだ。
仕事にはきちんと出てくるんだけれど…突然…じっと考え込んで…フリーズ状態…話しかけても反応なし。
家族に聞いた話じゃ…急に家を飛び出して行って…帰ってくると自分が何処で何をしていたのか覚えてなかったりするんだそうだ。
磯見だけじゃなくて…あの番組で事故にあった連中が多かれ少なかれ同じような症状を起こしているらしい…。
事故のショックによる後遺症じゃないかと上の方でも頭を痛めてる。 」
へぇ~元気そうだったのにねぇ…と西沢は当たり障りのない答えを返した。
また様子知らせてよ…海から拾い上げた僕としては気になるからね…といかにも心配そうな顔を見せた。
額面どおりに受け取った金井は快く承諾した。
それじゃ…紫苑…またな…お邪魔さまでした紅村先生…。
笑顔でそう声をかけると金井は足早に仲間の待っている席の方へ去っていった。
「どうやら…だんだん動きが出てきたみたいですねぇ…。 」
少し緊張した面持ちで紅村が言った。
「もうひとつ…注意しなければならないのは…これが単にふたつの組織同士の争いに過ぎない可能性もある…ということです。
例のHISTORIANと敵対する何処かの組織…。
HISTORIANが戦いを有利に展開するために僕等を利用しようとしているとも考えられなくはないのですから…。 」
西沢が言うと紅村も仰るとおりですと頷いた。
「ただ…西沢先生…ふたつの組織の争い…と言うには…妙な行動に走る者同士の間に繋がりが無さ過ぎると思われませんか?
おそらく同じ行動をとっていながら顔も名前も知らない者同士じゃないかと…。
組織のひとりとして協力して戦うという感じではないですね。 」
それには西沢も深々と頷いた。
「分かりにくいのはそこなんですよ…。
英武や輝が言うには自分の意思で動いているわけはないのに…誰かに操られているとも思えない…そんな状態なんだそうです。
夢でも見ながら動いているような…と輝が言っていましたが…。 」
日頃…あちらこちらの教室で何人もの人と接している紅村もそんな状況には今まで出くわしたことは無かった。
少しばかり記憶が飛んでしまう人は数多く見ていたけれど…。
とにかく何かがはっきりと動き始めたことは確かだから…西沢の言うとおり警戒を怠らない方がいい…。
生真面目な紅村の気合の入った表情見て西沢は苦笑した。
紅村先生は真っ直ぐな方だから…。
あんまり…端っから真正面に構えない方がいいですよ。
やたら疲れるばかりだし…いざという時固まっちゃって動けません…。
そう言われて…それもそうだと紅村は思った。
思いっきり肩に力の入っている自分に気付いて何だか可笑しくなってきた。
今にも噴出しそうにしてこちらを見ている西沢と声を上げて笑った。
明け方…やっと六枚目の挿絵を描き終えて…今日が締め切りの仕事は完了。
これで相庭が来るまで寝られるぞ…とベッドに潜り込んだ。
西沢の報告に対する上からの指示は引き続き調査せよとの内容で、これまで依頼に過ぎなかった扱いが指令書へと転じた。
それもこれも後…後…後! とにかく今は眠りたい。
潜り込んだベッドの傍らにノエルの温もりがないことをぼんやりした意識の中で感じていた。
ああ…夕べは亮のところだったんだ。
引っ掻き傷が増えてないといいけれど…亮が気付いて…ノエルを…止めてくれると…いいけど…。
身体ごと引きずりこまれるような感覚とともにふっと意識が遠のいた。
のっけから容赦なく照りつける夏の陽とともに街が少しずつ覚醒していき、やがて動き出す音があちらこちらから響いた。
開け放した窓から夏場には珍しく爽やかな風がすうっと部屋の中を吹き抜けてカーテンを翻した。
姿の見えない何かがそうっと滑るように西沢に近付いていく。
何かに圧し掛かられるような気配を感じて…西沢は目を覚ました。
「五行の…気…なんて…久しぶりなご来臨…。
また僕のエナジーでも抜きに来たのか…? 」
まさか…とその気は笑った…。
気が笑った…と感じたのは気の振動が西沢の身体に伝わったからだが…。
おまえに…伝えたいことがあってな…。
前と違ってレベルを下げなくても会話が出来るようになったので助かる…。
「ふうん…ノエルに産んで貰ったエナジーの基盤の効果かな…。
太極とも直に話が出来るようになったし…。 」
西沢は呟いた。
まあ…そんな話はどうでもいい…。
おまえは…失われた世界のことが知りたいのだろう…?
だが…知らなくてもいいことだ…。
時々…我々の記憶領域に入り込もうとする連中がいるが…迷惑している…。
「アカシックレコード…気の記憶領域だったのか…? 」
人間の考えの及ぶ限りでは…宇宙創世から137億年分の記憶…の保存されている場所…HISTORIANが有事に備えてリーディングを試みている場所。
生命が誕生してからでさえ…40億年の年月…これも人間の考えた年月だが…その中のたったひとつの出来事を断片だけ読み取って…何の役に立つと言うのだ…?
そんなものでは何も分からんよ…。
別に…おまえにも過去を解き明かしてやるつもりはない…。
知ってどうなるものでもないのだから…。
ただ…おまえたちの言う40億年の記憶は…我々の記憶領域だけではなくて…おまえたちの中にも存在するものだ…。
逃げ延びた悪…がどうやって逃げ延びたか…よりはむしろ…逃げ延びた悪とは何なのかを考えて見るがいい…。
「逃げ延びた…悪…の正体…? 」
まあ…おまえたちが滅んでも…我々に何ら支障はないが…また新しいものを作り出すのもなかなか面倒なのでな…。
「よく言うよ…。 人間が壊したものを補修・再生するより…人間を消して新しいものを作った方が楽だと言っていたのはあなただろ…。 」
声を上げて西沢は笑った。
何があったか…などは話すまい…。
今の世の中…おまえたちの周りをよくよく見れば分かることだから…。
同じ轍を踏むのが人間の宿命なら…この世界も終わりに近いということだ…。
我々が手を下すまでもない…。
「有難う…無い知恵絞って考えてみるよ…。 気の御厚意に感謝する…。
それはそうと…なかなか素晴らしいレチタティーボを聴かせて貰った。
あれは…あなたの…? 」
ふふんと少しばかり自慢げに気が笑った。
宇宙が舞う時には…何かが起こるものだよ…。
そう言って…西沢の部屋から次第に気配を消していった。
チャイムに叩き起こされて…ぼーっとしたまま仕事部屋へ行き、イラストをカルトンに挟んだ。
そのまま玄関の扉を開けると…寝てらしたんですか…?といつものように非難めいた視線を向けて相庭はカルトンを受け取った。
カルトンはすぐに相庭について来ていたK出版社の担当に渡された。
担当は挨拶の言葉もそこそこに飛ぶように帰って行った。
新しい仕事のリストを手渡しながら相庭が説明しようとした時、相庭の背後の扉が開いてノエルが戻ってきた。
今日は~っと相庭に声をかけながら寝室の方へ引っ込んでいった。
相庭はざっと説明を続けたが、西沢が話に集中していないようなので、まあ…いつものことですから読めば分かります…と早々に引き上げていった。
寝室の籐の椅子の上でノエルが蹲っていた。
早番の亮が書店へ出かけるのに合わせて帰ってきたのだろうが、ノエルの出勤はこれからだというのに妙に元気が無かった。
「ノエル…お腹痛むのか? 」
ノエルはチラッと西沢を見たが何も言わずに向こうを向いた。
西沢は膝をついてノエルの下腹部に手を当て様子を探った。
「ひどいな…。 亮にあれだけ注意したのに…。 」
違う…とノエルは言った。
亮にその気は無かったんだけど…僕が身体を引っ掻くのを止めさせようとして…。
どうしても苛々して…身体疼いて…。
僕が頼んだの…。 壊してくれって…。
でも…亮は優しいから…そんなことできないって断られた…。
だから…仕向けたの…壊れてしまうように…ちょっと苦しかったけど…。
哀しい溜息が西沢の唇から漏れた。
「ノエル…僕にこどもを産んでくれるんじゃなかったの…? 」
えっ…? ノエルは怪訝そうに西沢の顔を見た。
「ノエルの大切なお腹で…僕の赤ちゃん…産んでくれるんじゃなかったの?
そんなひどいこと繰り返していたら…できなくなっちゃうよ。 」
だって…僕には…僕には赤ちゃんなんて産めないはずでしょ…?
紫苑さんだって…本当は…分かってるくせに…。
西沢はノエルの治療を始めた。
ノエルの心が落ち着かない限り何度治療を繰り返してもきりがない。
それでも治療を止めるわけにはいかなかった。
「人間の身体は時に奇跡を起こすって…僕は信じてる…。
だから…大切にして欲しいってあれほど言ったのに…。 」
ノエルの身体から痛みが引けば…ノエルの心がまた苛立つ…。
どうしたら良いのだろう…。
輝のことが起きる前にはこれほどひどい症状は無かった。
むしろ…安定しかけていたのに…。
ノエルのためにと懸命に治療を続けながらも…どこか遣り切れない思いが西沢の胸を締め付けた。
次回へ
暑い時ですけれど…森の中は過ごしやすいですし…ご年配の方に合わせてゆっくりした散策程度の探勝会に致しましたので…。 」
荘川から帰ってきた紅村がほっとしたように微笑んだ。
お疲れさまでした…と西沢は労を労った。
探勝会は年に三回~四回ほどあって、紅村の遊山仲間の俳句の先生や水墨画の先生がそれぞれの生徒たちのために企画する小旅行なのだそうだ。
勿論…自然保護の啓蒙を兼ねてのことだが、堅い話は一切抜きにして自然を心行くまで楽しんでもらい、そうすることで自然の大切さを実感してもらうのが目的だという。
「どのくらい効果があるものかは分かりませんけれど…無意味ではない…と僕も仲間たちも考えております…。 」
そう言って紅村は穏やかに笑った。
サイン会の仕事であちらこちら出掛けている桂には電話で話をしたが、紅村とは仕事帰りに待ち合わせた。
相庭一族の経営するカフェ・バーは相庭に知られたくないことでもない限り、西沢にとっては安全な場所と言ってよかった。
店のママは西沢の顔を知っていて西沢たちが来るとすぐに他の客から離れた席に案内してくれた。
何気ない荘川での話から始まって軽い話で談笑した後、西沢は例の注意情報について紅村に話した。
紅村や桂は族姓を成す能力者ではないので外からの情報は入りにくい。
その都度個人的に伝えておく必要があった。
「それにしても…その方のように力を感知できないというのは困りものですね。
不意打ちでもされたら防ぎようがありませんからねぇ…。 」
紅村は幾分不安そうに言った。
まったく…と西沢は答えた。
「それもおそらく…ひとりやふたりのことではありません。
紅村先生や桂先生は通常…単独で行動されるので十分注意してください。
今のところは襲撃対象を特定の組織に限っているようですが…。 」
西沢の忠告に紅村は素直に頷いた。
店のドアが開いて何人かの客がどやどやと入ってきた。
ママの案内で西沢たちとは離れた席に向かって行った。
おや紫苑…珍しいところで…とその中の誰かが声をかけた。
そちらを見ると金井が立っていた。
「久しぶり…相変わらずあれやこれやでご活躍だな…。
そちらは…紅村先生…ご歓談中にご無礼致します。 」
金井は挨拶を済ますと急に眉を顰めながら小さな声で囁くように話し始めた。
「実は…磯見がな…おかしくなっちゃったんだ。
仕事にはきちんと出てくるんだけれど…突然…じっと考え込んで…フリーズ状態…話しかけても反応なし。
家族に聞いた話じゃ…急に家を飛び出して行って…帰ってくると自分が何処で何をしていたのか覚えてなかったりするんだそうだ。
磯見だけじゃなくて…あの番組で事故にあった連中が多かれ少なかれ同じような症状を起こしているらしい…。
事故のショックによる後遺症じゃないかと上の方でも頭を痛めてる。 」
へぇ~元気そうだったのにねぇ…と西沢は当たり障りのない答えを返した。
また様子知らせてよ…海から拾い上げた僕としては気になるからね…といかにも心配そうな顔を見せた。
額面どおりに受け取った金井は快く承諾した。
それじゃ…紫苑…またな…お邪魔さまでした紅村先生…。
笑顔でそう声をかけると金井は足早に仲間の待っている席の方へ去っていった。
「どうやら…だんだん動きが出てきたみたいですねぇ…。 」
少し緊張した面持ちで紅村が言った。
「もうひとつ…注意しなければならないのは…これが単にふたつの組織同士の争いに過ぎない可能性もある…ということです。
例のHISTORIANと敵対する何処かの組織…。
HISTORIANが戦いを有利に展開するために僕等を利用しようとしているとも考えられなくはないのですから…。 」
西沢が言うと紅村も仰るとおりですと頷いた。
「ただ…西沢先生…ふたつの組織の争い…と言うには…妙な行動に走る者同士の間に繋がりが無さ過ぎると思われませんか?
おそらく同じ行動をとっていながら顔も名前も知らない者同士じゃないかと…。
組織のひとりとして協力して戦うという感じではないですね。 」
それには西沢も深々と頷いた。
「分かりにくいのはそこなんですよ…。
英武や輝が言うには自分の意思で動いているわけはないのに…誰かに操られているとも思えない…そんな状態なんだそうです。
夢でも見ながら動いているような…と輝が言っていましたが…。 」
日頃…あちらこちらの教室で何人もの人と接している紅村もそんな状況には今まで出くわしたことは無かった。
少しばかり記憶が飛んでしまう人は数多く見ていたけれど…。
とにかく何かがはっきりと動き始めたことは確かだから…西沢の言うとおり警戒を怠らない方がいい…。
生真面目な紅村の気合の入った表情見て西沢は苦笑した。
紅村先生は真っ直ぐな方だから…。
あんまり…端っから真正面に構えない方がいいですよ。
やたら疲れるばかりだし…いざという時固まっちゃって動けません…。
そう言われて…それもそうだと紅村は思った。
思いっきり肩に力の入っている自分に気付いて何だか可笑しくなってきた。
今にも噴出しそうにしてこちらを見ている西沢と声を上げて笑った。
明け方…やっと六枚目の挿絵を描き終えて…今日が締め切りの仕事は完了。
これで相庭が来るまで寝られるぞ…とベッドに潜り込んだ。
西沢の報告に対する上からの指示は引き続き調査せよとの内容で、これまで依頼に過ぎなかった扱いが指令書へと転じた。
それもこれも後…後…後! とにかく今は眠りたい。
潜り込んだベッドの傍らにノエルの温もりがないことをぼんやりした意識の中で感じていた。
ああ…夕べは亮のところだったんだ。
引っ掻き傷が増えてないといいけれど…亮が気付いて…ノエルを…止めてくれると…いいけど…。
身体ごと引きずりこまれるような感覚とともにふっと意識が遠のいた。
のっけから容赦なく照りつける夏の陽とともに街が少しずつ覚醒していき、やがて動き出す音があちらこちらから響いた。
開け放した窓から夏場には珍しく爽やかな風がすうっと部屋の中を吹き抜けてカーテンを翻した。
姿の見えない何かがそうっと滑るように西沢に近付いていく。
何かに圧し掛かられるような気配を感じて…西沢は目を覚ました。
「五行の…気…なんて…久しぶりなご来臨…。
また僕のエナジーでも抜きに来たのか…? 」
まさか…とその気は笑った…。
気が笑った…と感じたのは気の振動が西沢の身体に伝わったからだが…。
おまえに…伝えたいことがあってな…。
前と違ってレベルを下げなくても会話が出来るようになったので助かる…。
「ふうん…ノエルに産んで貰ったエナジーの基盤の効果かな…。
太極とも直に話が出来るようになったし…。 」
西沢は呟いた。
まあ…そんな話はどうでもいい…。
おまえは…失われた世界のことが知りたいのだろう…?
だが…知らなくてもいいことだ…。
時々…我々の記憶領域に入り込もうとする連中がいるが…迷惑している…。
「アカシックレコード…気の記憶領域だったのか…? 」
人間の考えの及ぶ限りでは…宇宙創世から137億年分の記憶…の保存されている場所…HISTORIANが有事に備えてリーディングを試みている場所。
生命が誕生してからでさえ…40億年の年月…これも人間の考えた年月だが…その中のたったひとつの出来事を断片だけ読み取って…何の役に立つと言うのだ…?
そんなものでは何も分からんよ…。
別に…おまえにも過去を解き明かしてやるつもりはない…。
知ってどうなるものでもないのだから…。
ただ…おまえたちの言う40億年の記憶は…我々の記憶領域だけではなくて…おまえたちの中にも存在するものだ…。
逃げ延びた悪…がどうやって逃げ延びたか…よりはむしろ…逃げ延びた悪とは何なのかを考えて見るがいい…。
「逃げ延びた…悪…の正体…? 」
まあ…おまえたちが滅んでも…我々に何ら支障はないが…また新しいものを作り出すのもなかなか面倒なのでな…。
「よく言うよ…。 人間が壊したものを補修・再生するより…人間を消して新しいものを作った方が楽だと言っていたのはあなただろ…。 」
声を上げて西沢は笑った。
何があったか…などは話すまい…。
今の世の中…おまえたちの周りをよくよく見れば分かることだから…。
同じ轍を踏むのが人間の宿命なら…この世界も終わりに近いということだ…。
我々が手を下すまでもない…。
「有難う…無い知恵絞って考えてみるよ…。 気の御厚意に感謝する…。
それはそうと…なかなか素晴らしいレチタティーボを聴かせて貰った。
あれは…あなたの…? 」
ふふんと少しばかり自慢げに気が笑った。
宇宙が舞う時には…何かが起こるものだよ…。
そう言って…西沢の部屋から次第に気配を消していった。
チャイムに叩き起こされて…ぼーっとしたまま仕事部屋へ行き、イラストをカルトンに挟んだ。
そのまま玄関の扉を開けると…寝てらしたんですか…?といつものように非難めいた視線を向けて相庭はカルトンを受け取った。
カルトンはすぐに相庭について来ていたK出版社の担当に渡された。
担当は挨拶の言葉もそこそこに飛ぶように帰って行った。
新しい仕事のリストを手渡しながら相庭が説明しようとした時、相庭の背後の扉が開いてノエルが戻ってきた。
今日は~っと相庭に声をかけながら寝室の方へ引っ込んでいった。
相庭はざっと説明を続けたが、西沢が話に集中していないようなので、まあ…いつものことですから読めば分かります…と早々に引き上げていった。
寝室の籐の椅子の上でノエルが蹲っていた。
早番の亮が書店へ出かけるのに合わせて帰ってきたのだろうが、ノエルの出勤はこれからだというのに妙に元気が無かった。
「ノエル…お腹痛むのか? 」
ノエルはチラッと西沢を見たが何も言わずに向こうを向いた。
西沢は膝をついてノエルの下腹部に手を当て様子を探った。
「ひどいな…。 亮にあれだけ注意したのに…。 」
違う…とノエルは言った。
亮にその気は無かったんだけど…僕が身体を引っ掻くのを止めさせようとして…。
どうしても苛々して…身体疼いて…。
僕が頼んだの…。 壊してくれって…。
でも…亮は優しいから…そんなことできないって断られた…。
だから…仕向けたの…壊れてしまうように…ちょっと苦しかったけど…。
哀しい溜息が西沢の唇から漏れた。
「ノエル…僕にこどもを産んでくれるんじゃなかったの…? 」
えっ…? ノエルは怪訝そうに西沢の顔を見た。
「ノエルの大切なお腹で…僕の赤ちゃん…産んでくれるんじゃなかったの?
そんなひどいこと繰り返していたら…できなくなっちゃうよ。 」
だって…僕には…僕には赤ちゃんなんて産めないはずでしょ…?
紫苑さんだって…本当は…分かってるくせに…。
西沢はノエルの治療を始めた。
ノエルの心が落ち着かない限り何度治療を繰り返してもきりがない。
それでも治療を止めるわけにはいかなかった。
「人間の身体は時に奇跡を起こすって…僕は信じてる…。
だから…大切にして欲しいってあれほど言ったのに…。 」
ノエルの身体から痛みが引けば…ノエルの心がまた苛立つ…。
どうしたら良いのだろう…。
輝のことが起きる前にはこれほどひどい症状は無かった。
むしろ…安定しかけていたのに…。
ノエルのためにと懸命に治療を続けながらも…どこか遣り切れない思いが西沢の胸を締め付けた。
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