橋本治とナンシー関のいない世界で

「上野駅から夜汽車に乗って」改題
とうとう橋本治までなくなってしまった。
平成終わりの年にさらに改題してリスタート。

ブログ復活の理由 

2009-09-09 16:44:31 | Weblog
3年塩漬けにしていたブログを復活させた理由のひとつは、
昨日も書いたように、ナンシー関に触発されたからだが、
もう一点は、これからマスメディアの過渡期になるかもしれないからだ。

民主党が言ってる記者クラブの解放がどういう影響を及ぼすのか、
それとも何にも変わらないのか・・・。

よく、記者クラブはテレビと新聞の既得権益のようなことを言われるが、
問題なのは、その閉鎖性ゆえに、官僚の側が情報操作に利用できる事だ。

「発表報道」に堕しているといわれるマスメディアに対し、
官僚は自分たちに都合のいい情報だけを流す可能性がある。

その可能性を私が実感として感じたのは、
あの耐震偽装問題の時だった。
この事件の時、
マスメディアは官僚から出てくる情報に踊らされただけではないかと、
今でも私は思っている。

私はクラブの記者ではないので、そうした官僚発の情報を一次情報として
直接受け取ることはない。クラブの記者からやってくる情報を元に、
自分なりに考え、追加取材をするだけの立場だ。
ゆえに、クラブが決めた報道方針とまったく違う事は、報じる事はできない。
当時、取材から私が導いた答えは一般に報じられているそれとは違っていた。
結局、耐震偽装について私が取材し考えた事は、
自分の所属するメディアで報じられる事はなく、
ただこのブログにのみ書かれている。

興味がある方は、過去の記事「耐震偽装捜査終了らしい。」を読んで下さい。

裁判員制度も始まり、マスメディアは、
情報の出元を明示するよう配慮しているようだ。
事件報道ではたいてい、
県警によればとか警視庁への取材でという言葉が聞かれる。
そして、それがほとんどだ。独自取材でとか、めったに聞かない。
裁判員の予断を防ぐため情報の出元を出した事が、
ただ警察情報を垂れ流していた事がばればれになっただけという状況だ。

そんな私も、最近は独自で取材を行う事も無く、既存の情報のまとめや、
過去のクロノロジー的なものしか担当していない。

私は記者ではない。ジャーナリストでもない。
理解がめんどうくさい情報を分かりやすく噛み砕いたり、
素朴な疑問を呈したり、
興味を持ちやすく加工して提供する役回りだと認識している。
しかし、そんな自己認識の私でさえ、素朴な疑問を抱いて、
それに忠実に行動すれば、
人脈を駆使したディープな取材なんかできなくても、
なんだかオカシイと思える事象はいっぱい出てくるのだ。

昨今のニュース番組は、
ただのニュースでは視聴率がとれないといって、
「のりP事件」ばかりを報じ、グルメ情報を流し、
視聴者の俗情を刺激するようなものばかりを流すが、
それは、単純に政治や経済のニュースで視聴率がとれないから
ではないと思う。
政治や経済のニュースを、視聴者に共感を持ってもらえるように
料理する事ができていないだけだ。
料理というより、その問題の核心は何かを抽出する事ができていない。
テレビはその努力を怠っているように見える。
俗情をあおることの方が簡単だから、そっちに流れているだけだ。
だから、小幅にしか視聴率は動かない。
さらにいえば、テレビで働いている人間の多くが、
視聴者の興味を見誤っているのではないか。
テレビ局という特殊な狭い世界で生きているがゆえに、
テレビという箱の外側にいる人の感覚が
わからなくなっているのだろう。
先頭を走っていると信じているテレビマンは、
一周遅れで、視聴者の前を走っているのかも・・。

ナンシー関は泣いている・・・かもね~再開にあたって

2009-09-09 02:12:43 | Weblog
本屋に「ナンシー関リターンズ」という本が並んでいたのを見て触発され
自宅の本棚から引っ張りだした既得のナンシー関本でこんなフレーズを見つけた。

ここから引用
『番組寸評
昨今、テレビではいろんな番組を制作しているようだが、
無防備に私たちの生活になだれ込んで来るそれを道徳的観念を持って制御するには、
批評能力が必要だ。当局の設置した臨時低俗番組徹底追放協議会および運動本部が、
この状況を打開せんとすべく運動部員の鋭い感性を結集し、
今ここにビバーンと送る現代人のバイブルです。毎朝読んで肝に命じて下さい。』
~引用ここまで(「ナンシー関大全」より)

高校生のとき(?)に友人と作っていた新聞の一節らしい。
完敗だ。ナンシー関と競っても勝負にならないのは分かっているが、
負けたとしか言えないような先見の明である。
テレビに対して、「無防備に私たちの生活になだれ込んでくる」という
表現を使うモノの見方の的確さ。
「打開せんとすべく」の後に「ビバーンと」が来るところが、
彼女の誠実さの証である。もう泣けちゃったね。
この言葉を、ブログ再開の記念に掲げたい。


冒頭でも言ったように、
先日、本屋に行くと、ナンシー関リターンズという本が平積みに並んでいた。
なぜ今、とも思ったが、最近私の生活範囲にナンシー関的なものが枯渇していたので、
懐かしさのあまり購入した。
そして、やっぱりすごいわ、今こそナンシー必要なんじゃんと強く思ったら、
このメディアブログを塩漬けにしてた事ふと思い出したのだった。

久々に読んだ、ナンシー関の文章は、サブカルを超えちょりました。
前にも読んだ事ある文章なんだろうけど、
どんどんひどくなってくメディアの状況に、
かつて読んだ時より、こっちの感度が敏感になってるんだろう。

ナンシー関のコラムは社会批評の王道でござった。
芯食いすぎちゃってシャレにならない。
時代が変わろうとする今、この本を手に取ったことは、
必然だったのですね多分。

ナンシー関は20年近く前の文章で、
今の日本のいろんな問題点の根っこの部分をことごとく言い当てている。
遡上に載るのは、『加賀まりこ司会の「夜のヒットスタジオ」。
誰がまりこのお眼鏡にかなうかが見物』だったりするのだが、
テレビの中の芸能人の人間模様に視聴者(世の中)がどう反応し、
それが何を意味するのかを的確に語っている。
その文章で引用されている加賀まりこの台詞が
『工藤静香は好きだけど、酒井法子は嫌』だというのも今見ると感慨深い。

そして、ナンシー関は言う、
「テレビがどんどん下世話になっていく。」
さらに言う、
「私たちは事の重大さに気づいていない。」

全然古びていないとか、今でも通用するとか、
そんな上から目線の評価なんておこがましい。
予言者だよ。

芸能というのは、常に大衆の生活の通奏低音みたいになっている。
芸能に対する大衆の反応を読み解く事は、
政治に対する大衆の反応を読み解くことよりも、
ある意味、的確に社会を分析できる。
そういう意味で、彼女は社会批評家だ。

世の中の人々の無意識に眠る深層心理なんてお見通し。
文章からは、世の中のあまりの鈍感さに一人ため息をつくナンシーの姿が見える。
でも、ため息をつくばかりでもなくて、ちゃんとイイもんめっけて、
世の中のヤまんざらでもなさユも感じている。
批評の正しいあり方である。

このナンシー関の文章をよんで、
『まんざらでもない』ものを見つける事が人間の幸せなんじゃないか、とさえ思った。
「まんざらでもないもの」は、「ため息をつきたくなるもの」の山の中にまぎれていて、
ぶつぶつ言いながらその山をかき分けて見つけなければいけない。
それはアグレッシブな作業ではない。地味な日常的な作業だ。


『ナンシー関のいない世界』に今私たちは生きている。
世の中は、「まんざらでもない」を見つけることを忘れた。
そして、大味な「イケテル」を手に入れようとした。
そんな私たちは、壁にぶち当たり、
とうとう「change」というところにまで来てしまった。
「まんざらでもない」小さな幸せの見つけ方を失った世界は、
壁にぶち当たるしかないのだろう。

「まんざらでもない」小さな幸せは、大きな理想のないところではみつからない。
そして、厳しい批評のある場所でのみ見つけることができる。
「まんざらでもない小さな幸せ」をみつけることは、そんなに生易しいものではない。
けれど、「change」後の混乱するであろう世界を生き延びるには、
その生易しくはないスキルを磨くしかないのだと思う。


そこで、このコラムを再開しようと思う。
ナンシー関のいない世界でも、楽しく生きていきたいからね。