帰宅してメールを開いたら、iTuneからのお知らせ。
坂本龍一の「Playing the piano2009 Japan fan's selections」の
リリースを知らせるメールが届いていた。
YMO時代から最近の曲まで(ほぼ30年!)、
ピアノで演奏したものの中から人気投票で選んだベスト版だ。
何気なく開いて試聴したら涙が出た。
実家の居間に寝転んで、
ラジカセから流れる曲を聴いている高校生の自分が見えた。
土曜日の誰にも邪魔されない昼下がり。
80年代前半、バブルがやってくるちょっと前(歳がバレるね)。
まだ世の中は、不景気と言われるカテゴリーのはずだったのに
その当時の曲は、なぜか、軽やかでキラキラしていた。
東京がTOKIOと呼ばれ、スーパーシティになったのが80年。
日本が高度成長期を経て、オイルショックも切り抜け
次のステップに向かう先触れみたいなものを
どこかで感じていたのだろうか。
うまく説明できないが、当時の曲には、
未来に向かって開いている感じの曲が多い(主観だけど)。
70年代の、まだクラシックな風情が残る日本から、
次の時代に向けて、軽やかな風が吹き抜けているような感じ。
(今考えれば、当時の日本はただの怖いもの知らず、若木の至り
地獄への入り口だったのかもしれないが・・・とほほ)
ユーミンの「パールピアス」のジャケットはペパーミントグリーンで
ライナーノーツのイラストは安西水丸で、という、そんな時代だった。
ナイアガラトライアングルの音がそこここで聞こえていた。
そんな時代のそんな曲たちの中に、都会を見つけ、憧れている田舎の少女に
またそれとは別な軽やかさを見せてくれたのが、
坂本龍一の音楽だった。
このPLAYING PIANO2009にも入っている「セルフポートレート」は
1984年リリースの「音楽図鑑」に収録されている。
上記の、土曜の昼下がりの私は、ラジオのFMから流れるこの曲を聴いている。
私は、この曲に「なつかしい未来」という別名をつけていた。
そして、私は、その曲を聴きながら、こんな詩のようなものを書いている。
<Self Portrait~なつかしい未来~>
孤独なんだか 元気なんだか
楽しいんだか 寂しいんだか
なんだか
お別れみたいな気もするし
はじめて会った気もするし
けっして戯れず
未来をみつめるということは
孤独であるということかな
写真の中でぼくらは笑っている
これだと「セルフポートレート」ではなくて、
「グループ写真」だったりするのだが、
そこは、なんとなくこの曲から受けたイメージを書いただけなので
いいかげんですね。
なんでこういうイメージ抱いたかはわからないけど、
興味のある人は聴いてみてください。
教授の曲の中では「音楽」という曲(このアルバムには入ってないけど)や
「パースペクティブ」なんかが、
私の中では、この「セルフポートレート」と同じカテゴリーに入っている。
共通点は、日常のリリカル。
日々の生活や自分のまわりの世の中には、いろんな音符♪が踊っている、
跳ねている、揺れている、震えている・・そんなことを感じさせてくれた曲。
言葉とは違う表現手段がある、もとい、
音符一つ一つにも思いがあるということに
気づかせてくれたのがこれらの曲たちだった。
例えば、マグカップ、例えば、白いシーツなどなど、
じっとして動かないモノ、もの言わぬモノもたくさんの音符♪の集積で
できていて、何かの刺激があると飛び出して音楽を奏でる。
そんなイメージ。
そんなリリカルな音の玉たち、
いろんな色のカラフルな音符たちが集まって、
今の自分を形作っている。
そして、今、スピーカーから流れてくるピアノの音が、
私の中のいろんな色の音符を刺激して、
なつかしい未来を、昔の自分を、今の自分を、
未来の自分の姿を浮かび上がらせる。
かろやかな風吹く、やさしい未来。
時代がいくらデジタル化しようと、
緑の木漏れ日の下で、名前をつけたノートブックPCを開いて
のんきに鼻歌歌っていたい。
電子だって、自然の一部だ。
今、これらの曲を聴いてこんなことを考えるのは、
日本に、新しい時代に向けて風が通る穴があいたからかもしれない。
灰色の未来につながりそうなものには耳を傾けたくない。
やっと緑色の未来に繋がる道が見え始めたところだ。
心のアンテナの感度を高めて、なつかしい未来をキャッチしたい。
これを書いている今は、
あれから25年後の土曜の昼下がり。
青空の下、ベランダでは洗濯機が回っている(うちは洗濯機が外なのだ)。
9月にはめずらしいいい陽気で、さっきガリガリ君を食べたとこ。
洗濯物干したら、アルバム本体を買いに行こ。
今、ふと思ったが、25年前はまだ、
歌の歌詞の中に、都会の緑が結構登場していたかな。
東京がまだ、松本隆のいう「風街」だったのかな。
私は、それにあこがれてここにやって来たのにな・・。
そんな東京になったらいいな。
実は、昨日、某港区のTSUYAに行ったのだが、
発売日3日目だというのに、
「Playing the piano2009」置いてなかった!
ちなみに、昨日発売の橋本治の新刊「明日は昨日の風が吹く」
も近所の本屋どこにも置いてなかった。
いいものをちゃんと仕入れようね!
坂本龍一の「Playing the piano2009 Japan fan's selections」の
リリースを知らせるメールが届いていた。
YMO時代から最近の曲まで(ほぼ30年!)、
ピアノで演奏したものの中から人気投票で選んだベスト版だ。
何気なく開いて試聴したら涙が出た。
実家の居間に寝転んで、
ラジカセから流れる曲を聴いている高校生の自分が見えた。
土曜日の誰にも邪魔されない昼下がり。
80年代前半、バブルがやってくるちょっと前(歳がバレるね)。
まだ世の中は、不景気と言われるカテゴリーのはずだったのに
その当時の曲は、なぜか、軽やかでキラキラしていた。
東京がTOKIOと呼ばれ、スーパーシティになったのが80年。
日本が高度成長期を経て、オイルショックも切り抜け
次のステップに向かう先触れみたいなものを
どこかで感じていたのだろうか。
うまく説明できないが、当時の曲には、
未来に向かって開いている感じの曲が多い(主観だけど)。
70年代の、まだクラシックな風情が残る日本から、
次の時代に向けて、軽やかな風が吹き抜けているような感じ。
(今考えれば、当時の日本はただの怖いもの知らず、若木の至り
地獄への入り口だったのかもしれないが・・・とほほ)
ユーミンの「パールピアス」のジャケットはペパーミントグリーンで
ライナーノーツのイラストは安西水丸で、という、そんな時代だった。
ナイアガラトライアングルの音がそこここで聞こえていた。
そんな時代のそんな曲たちの中に、都会を見つけ、憧れている田舎の少女に
またそれとは別な軽やかさを見せてくれたのが、
坂本龍一の音楽だった。
このPLAYING PIANO2009にも入っている「セルフポートレート」は
1984年リリースの「音楽図鑑」に収録されている。
上記の、土曜の昼下がりの私は、ラジオのFMから流れるこの曲を聴いている。
私は、この曲に「なつかしい未来」という別名をつけていた。
そして、私は、その曲を聴きながら、こんな詩のようなものを書いている。
<Self Portrait~なつかしい未来~>
孤独なんだか 元気なんだか
楽しいんだか 寂しいんだか
なんだか
お別れみたいな気もするし
はじめて会った気もするし
けっして戯れず
未来をみつめるということは
孤独であるということかな
写真の中でぼくらは笑っている
これだと「セルフポートレート」ではなくて、
「グループ写真」だったりするのだが、
そこは、なんとなくこの曲から受けたイメージを書いただけなので
いいかげんですね。
なんでこういうイメージ抱いたかはわからないけど、
興味のある人は聴いてみてください。
教授の曲の中では「音楽」という曲(このアルバムには入ってないけど)や
「パースペクティブ」なんかが、
私の中では、この「セルフポートレート」と同じカテゴリーに入っている。
共通点は、日常のリリカル。
日々の生活や自分のまわりの世の中には、いろんな音符♪が踊っている、
跳ねている、揺れている、震えている・・そんなことを感じさせてくれた曲。
言葉とは違う表現手段がある、もとい、
音符一つ一つにも思いがあるということに
気づかせてくれたのがこれらの曲たちだった。
例えば、マグカップ、例えば、白いシーツなどなど、
じっとして動かないモノ、もの言わぬモノもたくさんの音符♪の集積で
できていて、何かの刺激があると飛び出して音楽を奏でる。
そんなイメージ。
そんなリリカルな音の玉たち、
いろんな色のカラフルな音符たちが集まって、
今の自分を形作っている。
そして、今、スピーカーから流れてくるピアノの音が、
私の中のいろんな色の音符を刺激して、
なつかしい未来を、昔の自分を、今の自分を、
未来の自分の姿を浮かび上がらせる。
かろやかな風吹く、やさしい未来。
時代がいくらデジタル化しようと、
緑の木漏れ日の下で、名前をつけたノートブックPCを開いて
のんきに鼻歌歌っていたい。
電子だって、自然の一部だ。
今、これらの曲を聴いてこんなことを考えるのは、
日本に、新しい時代に向けて風が通る穴があいたからかもしれない。
灰色の未来につながりそうなものには耳を傾けたくない。
やっと緑色の未来に繋がる道が見え始めたところだ。
心のアンテナの感度を高めて、なつかしい未来をキャッチしたい。
これを書いている今は、
あれから25年後の土曜の昼下がり。
青空の下、ベランダでは洗濯機が回っている(うちは洗濯機が外なのだ)。
9月にはめずらしいいい陽気で、さっきガリガリ君を食べたとこ。
洗濯物干したら、アルバム本体を買いに行こ。
今、ふと思ったが、25年前はまだ、
歌の歌詞の中に、都会の緑が結構登場していたかな。
東京がまだ、松本隆のいう「風街」だったのかな。
私は、それにあこがれてここにやって来たのにな・・。
そんな東京になったらいいな。
実は、昨日、某港区のTSUYAに行ったのだが、
発売日3日目だというのに、
「Playing the piano2009」置いてなかった!
ちなみに、昨日発売の橋本治の新刊「明日は昨日の風が吹く」
も近所の本屋どこにも置いてなかった。
いいものをちゃんと仕入れようね!