橋本治とナンシー関のいない世界で

「上野駅から夜汽車に乗って」改題
とうとう橋本治までなくなってしまった。
平成終わりの年にさらに改題してリスタート。

「若者不幸社会」自虐はデフォルト?~「ダメ人間漂流記」を読む その2

2010-08-18 13:52:50 | 国内情勢
「若者不幸社会」自虐はデフォルト?~「ダメ人間漂流記」を読む「その1」からの続きです。

こうして「ダメ人間漂流記」というブログを紹介したのだが、私にはどうしても腑に落ちないことがあった。
それは、このブログのタイトルが「ダメ人間漂流記」である通り、著者は自らの事をダメ人間だと主張していることだった

偏差値の低い高校を出て、SEかプログラマーになりたくて情報処理の専門学校に行ったものの、自分は頭が悪く、勉強しても国家試験には受からず、そうした職種への就職も叶わない。バイトの面接さえ失敗続き。誰も自分を雇ってくれず、結局働けるのは請け負い会社経由の製造業。もはやそういう仕事しか雇ってもらえなくなってしまっているという。

それで、彼は自分のことをことあるごとにダメ人間だと言う。
地元の田舎町は保守的で、請負で働いてるなんて言ったら、親戚にもバカにされ、友人もいなくなり、結婚式にも呼ばれないとも語る。

でも、自分のことをそれほどダメだと語る彼は、工場での労働の傍ら、これだけ大量の文章を生み出しているのだ。
これだけ文章が書けるのに、なんで自分をバカだと思うのだろうか。そして、そんな彼を周囲の人間はなぜバカにするのか?

テレビの仕事をやっているとき、ディレクターでも、全然文章書けない後輩がいた。彼はそれにくらべたら、全然自分の思ってる事を伝えられてると思う。
これだけ大量に書けるのは、ある意味才能だと思うのだが、彼は書く事を仕事にしようとは思わないのだろうか?

ふと、最近のアフィリエイト狙いのブログの乱立のことが頭に浮かぶ。
ブログの広告でアフィリエイト収入を得るためのテクニカルな方法をレクチャーするとされる情報商材を紹介するブログがある。そして、そうした儲かる方法を実践しているとするブログがある。
世の中に何も訴えたい事など無いのに、ただ金儲けのためだけに、内容を無視した広告を貼付けるためだけのブログを山のように作る人がいる。
そういうものを見ていると、彼が自分のブログにかけている労力と熱意がなぜ換金されないのだろうと思えてくる。

もちろん、私が今こうして書いている文章も、全然お金にはなっていない。だから、彼の文章がなぜ換金対象にならないのかなどと思うのかもしれない。

『自分がそれまで生きていた場所では、自分の主張に耳を傾けてもらえない』そう思って、ネットにその場所を求めた点では彼も私も同じだ。
私もこの自分のブログで、自らの立場の弱さを吠えていた。アラフォー独身、保証無し、仕事辞めた、をネタにしようと思っていた(いる、かな?)。
しかし、彼と違うのは、ずうずうしくもブログのプロフィールに、書く事を仕事にしたいと書いている事だ。
彼は、そんな野心はほとんど見せない。

私から見れば、自分より10歳以上も下の人が、これだけいろんなことを書いているのは、同い年の頃の自分とくらべたら尊敬に値するのだが、彼にとっては、違うのだろう。彼と私と、現在の客観的状況はあんまり変わらないように思う。仕事してるだけ彼のほうが偉いくらいだ。
しかし、彼は言うかもしれない。
今の状況や実力がどうであろうと、一旦請負の穴に滑り落ちると上がって来れないんですよと。

そんな彼と私に違いがあるとすれば、学歴だ。
たまたま大学生時代がバブル景気にあたったため、田舎のビンボー人の私も、某有名私大に入れた。

たしかに世間体はいい。しかし、いいのは世間体だけだ。

世間体・・・。

もしかしたらが世間体がいいことで、私は無駄な悩みから解放されていたのだろうか。嫌な話だ。でもそうかもしれない。

この『世間体』ということが、ものすごく大きいのだという事をあらためて感じさせられてどんよりする。
「世間体」が彼が持てるはずだった「自信」をスポイルしてしまっている。世間体は、人の才能も自信も奪ってしまうほど幅を利かせている。そうして人の行動を制約してしまっている。

「学歴」か「職業」、「容姿」、「金」これが表の世間体、表の人間の判断基準だとしたら。裏の判断基準は「オモロい」かな。最近「人脈」ってのも流行ってるけど。

秋葉原事件の加藤被告は、前者4つを持ち合わせず、世間体(特に学歴)を重んじた(裁判からはそう見える)母親から無言の圧力を感じる。一方、ネット上では、自虐ネタで「オモロい」ことを言う奴と認識され始めた。しかし、それさえも「なりすまし」によって奪われる。


ところで、2009年10月31日の彼のブログに「仮想世界」と題したこんな記事があった。

<引用>
『所詮ネットなんてもんは、今も昔も便所の落書きで、肥溜め以下の価値もない。こんなところに期待してもなにも解決しないし、なにも変わらない。どんなに派遣だ請負だと言ったって、何百回も加藤が彼女がいなくてさみしいだと書き込んだって、何も変わらなかったものが、たった1回だけ秋葉原で大量殺人を犯すだけで世の中の仕組みが簡単に変わる。そんなもの。
 0と1の2進数で作られる虚構の世界。ネットはリアルになりえないし、ネットはリアルの代替には絶対なりえない。それはゲームにも言える。こんなものに肩肘張ってはりついても意味は無い。書きたいことがあれば、ただ書きなぐればいい。むしろそれがネットの正しい使い方だ。』
<引用ここまで>

ネット上に書く事に、意味を見いだしていない投げやりな感じ。
NHKの「フリーター漂流」を見て、自分なりの回想録をブログに書こうと決意した時の彼も、既に上記のように思っていたのだろうか。書いたものを本にしようとはこれっぽっちも思わなかったのだろうか?

彼は、なぜ日本では労働者のデモが起こらないかを綴った文章の中で、こんなことも書いている。

<引用>
『この国の中にいる、いわゆる『負け組み』の連中の願いは、なにも豪邸に住みたいだとか、大量の美男美女に囲まれて豪遊したいだとか、そういうことじゃない。ただ、かつて『普通』と呼ばれた、マジメに働いていれば家庭を築けるくらいの給料をもらえて、ささやかな幸せが手に入るくらいの『中流』の生活が欲しいだけだ。(中略)こんな時代、職を求める奴らなんかいくらでもいる。底辺を生きる者が『普通』になりたいとデモなどで声を上げると、『普通』の人間とはみなされなくなり、『普通』の生活が遠のいてしまうという、悪循環。希望もなくジリ貧のまま底辺を続けているが、声を上げられない。実際、僕が「暴動おこそうぜ」と呼びかけたところで、誰からもなんの反応すらもらえないだろう。現に今までなんの反応も無かった。底辺のままでは希望が無い。それは分かっているがデモすら起こせない。そのやりきれなさ。それがこの国をおおっている閉塞感の正体なのかもしれない。』
<引用ここまで>

『普通』の『中流』生活が欲しいだけ。
よく聞く言葉だ。しかし、ちょっと引っかかる。
なぜ、普通しか中流しか求めないのだろう。いつから求めなくなったのだろう。

今現在、『普通』の生活が手に入っていて、それを守るためにいろんなことをガマンするというのならまだ分かる。しかし、まだ手に入っていない、手に入るかも分からない『普通』の生活の『可能性』を無くすのが怖くて、必死でやり切れなさに耐え、声を上げる事をガマンしている。
そして、結果、雇用する側の都合のいいように使われてしまう。
どこまでお人好しなんだ。

それって「欲しがりません勝つまでは」みたいじゃないかー。

「自虐」ということがネタを超えて、一部の若者のデフォルトになっているのか・・・。

こうした発想は、現在の雇い雇われるという関係の外に出るという発想が無いからではないだろうか。彼らは多分、自らが起業するとか自営をやることは考えていない。多分、できるわけがないと思っている。
私の親の世代は、まだまだ個人商店も多く、学校の連絡簿には職業の欄に自営の文字が多かった。
学歴も無い、資格も持たない人々が、一国一城の主としてなんとかかんとか生計を立てていた。それがここ30年でずいぶん状況が変わった。みなが大企業の傘下でおとなしく働く、それも『普通』しか求めず。

世の中には若者に対する自己責任論もはびこるが、高度成長期以降、日本をこうした自虐的で画一的な働き方生き方しかできない社会にした、指導者層の責任というのもあると思う。

日本の繁栄を支えてきたと自負されている爺様、おじ様方は、そういう意味で、謙虚に若者の話に耳を貸すべきだ。若者もちゃんと主張するべきだ。
とかく団塊の世代の方の多くは、話を聞くぞと太っ腹な振りをしつつ、実は自分に都合のいい話にしか耳を貸さない方がいらっしゃる。
私もそれでげんなりした体験がある。

池上さんもベストセラー「伝える力」で言っている。
『謙虚にならなければ、物事の本質は見えない』

よろしくおねがいします!!

最後にちょっと付け足すと、ブログの彼も書いてるが、今の若者の側に生きるモチベーションが低い人、理想だけ高い人が多いというのも、間違いではないんだろう。若者ももっと元気出せよ。
若者も、「卑屈」じゃなくて「謙虚」になれよ!!

まあ、あんまり人のこと言えないんだけどね。

今回ここに書いたのは、ダメ人間漂流記に書かれたほんの一部から考えた事だ。一面的にしか問題を取りあげられていない。ブログには、彼がダメ人間という人々のもっといろんな側面が描かれている。お時間のある方は読んでみて「若者不幸社会」について考えてみてください。続・ダメ人間漂流記

うげー、ちょっとのつもりがこんなに長くなっちゃったよ。反省。まとまりのつかない内容で失礼いたしました。ここまで読んでいただきありがとうございました。
伝える力 (PHPビジネス新書)
池上 彰
PHP研究所

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「若者不幸社会」自虐はデフォルト?~「ダメ人間漂流記」を読む~ 「その1」

2010-08-18 13:40:22 | 国内情勢
15日、テレビ東京で放送した「池上彰の戦争を考える3時間SP」を見た。
放送後、番組への感想が結構アップされてるんじゃないかと思って、ググってみたところ、すでにいくつも記事がアップされていた。
そして適当に、その中のひとつのブログを訪問したのだが、その池上さん番組の感想どころか、一日そのブログのほかの記事を読みふけることになってしまった。

そのブログのタイトルは、「続・ダメ人間漂流記」という。

そのブログが、なぜこの暑い中、私の貴重な一日を奪う事になったのか・・・。

実はこのブログ、彼が2001年に情報処理の専門学校を卒業して以来、製造業請負の現場で働いてきた数年間の詳細な記録なのだ。
その文章量たるや凄まじく、一つのカテゴリーで70数回連載されたものもあった。ちょっと、そのブログのカテゴリーを紹介しよう。

○ダメ人間回想録・第1部・底辺フリーターの世界
○ダメ人間回想録・第2部・漂流者たちの携帯工場
○ダメ人間回想録・第3部・ニートな日々(某カレー工場の話)
○ダメ人間回想録・第4部・液晶工場は黄昏て・・・
○ダメ人間回想録・第5部・DVDラインの哀歌を口ずさみながら
○テレビ番組
○ニュース
○日記・エッセイ・コラム
○映画
○本と雑誌
○競馬
○雑学

4年前、このブログは上記カテゴリーの第1部から始まった。それが専門卒後の彼の日々だ。その後、ブログは第5部までつづく。
彼は、2005年にNHKで放送され製造業請負の問題を浮き彫りにした「フリーター漂流」という番組を見て、そこで紹介された工場がかつて自分のいた工場だと気付く。そして、番組で紹介されていたことは、ほんの一部であり、請け負い労働者のすべてを伝えていないと感じ、この回想録を書く事を決意した。

この回想録は、去年の7月に完結し、現在では、私が最初に読んだ、池上さんの番組への感想のような、さまざまな雑記が掲載されている。
しかし、その記事の根底にはずっと、請負や派遣を放置する社会への批判が横たわっている。

これだけ大量に書かれた派遣(正確には請負)日記には初めて出会った。
携帯工場のカテゴリーだけでも75回+追記がある。
私はこのブログに昨日たまたま出会ったが、これは派遣や請負の実態を知ろうとする人の間では結構有名なブログなんだろうか?

最初の頃は伏せ字が入ってた企業名も、途中からは伏せ字が無くなっている。
そこには日本の名だたる企業、知る人ぞ知る企業の名が並ぶ。自分の目で確かめた訳ではないので、これが事実かどうかの判断は保留にせざるを得ないが、一読の価値はあると思う。
もしこれをすべてでっち上げで書いているとしたら、それはそれで驚くべき才能と言えるような、詳細なレポートなのだ。
そして、そこに書かれている各工場の実態よりも、記事に書かれた、彼自身の心情や、彼によって描写される様々な上司や同僚の言動にこそ、今の日本の実情が映し出されているのだ(事の真偽は読んでみて考えてください。決して、そこに書かれている固有名詞だけ煽らないように)。

とはいえ、労働自体も過酷である。
私は携帯電話の組み立て工場のカテゴリーを30数回分と、その他ランダムにページを開いて読んでみたが、携帯工場の非正規職員の労働は想像以上だった。

日勤と夜勤に分かれ、日勤は朝8時半から夜の12時まで、途中休憩は挟むものの、ずっと一種類の単調な部品組み立て作業をやり続けるらしい。夜勤は、日勤以外の時間の全てだ。つまり、工場は24時間稼働するのだ。

請負会社の担当者に「もう身体がもたないのでこんな仕事は辞めたい」といえば「君が辞めたせいで、生産台数が達成できなかったらどうするんだ」と、自分より生産台数達成の方が大事だと言われ、さらに「すぐやめるようなスタッフを派遣した派遣会社が悪いって、派遣先企業から訴えられたことがあるんだよ」と辞めないように担当者は迫ってくる。しかしそうした引き止めも、仕事の速い人間に対してだけで、仕事が遅く、ラインに組み立て部品が溜まってしまうようなスタッフはすぐに首を切られるのだ。

<ブログから引用>
『もはや僕は決められた作業を決められた時間で行うマシンになっていた。
 つまり人材。僕は人間という材料になっていた・・・。
 いや、僕だけではなくこのラインに居た人全員が組み立てだけを行うマシン 
 になっていたのかも知れない・・・。』<引用ここまで>


さらに、正社員と非正規の間の差別だけでなく、製造工程の種類によって、見下したり見下されたりがあることなども、生々しく書かれている。

私のブログでは、例の朝まで生テレビ「若者不幸社会」について書いた回が、いまだにアクセス数がどの記事よりも多い。ブログ解析の検索ワードも、このところずっと、「朝生、東浩紀」か「若者不幸社会」で、ネット上でのこのテーマへの関心の高さが分かる。

しかし、あの朝まで生テレビに出演して発言していた人や、番組を見ていた人の中で、こうした職場の実態を生々しく知る人がどれだけいるだろうか。
田原総一朗氏は知っているのだろうか。

番組の感想の記事では、若者不幸社会の分析ばかりではなく、その先へ進もうというようなことを中心に書いたが、それを行う上で、若者の現状を置き去りにする事もできない。
そう思って、今日、このブログについてとり上げてみた。
詳しい内容は、実際にこのブログを読んでみて下さい。
続・ダメ人間漂流記

ただ、こうしてこのブログを紹介したのだが、私にはどうしても腑に落ちないことがあった。
それは、このブログのタイトルが「ダメ人間漂流記」である通り、著者は自らの事をダメ人間だと主張していることだった・・。 (長くなったのでここで分割して、「その2」に続けます)

「若者不幸社会」自虐はデフォルト?~「ダメ人間漂流記」を読む~「その2」に続く