永山武四郎邸(北海道札幌市中央区北2条東)
屯田兵の生みの親ともいわれ後に第2代北海道長官となった永山武四郎が明治10年に私邸として建てたものです。
建造物の仔細なデザインなどから、邸宅の設計にあたったのは、当時の開拓使工業局の手によるものであるとされています。
邸宅部分は、洋風応接室と書院座敷を直接連絡するなど和洋折衷様式になっています。
北海道開拓時代の西洋建築技術の住宅への導入を物語るもので、以後この北海道の明治期の特色ある住宅建築の先駆けとなったものです。
1904年に永山武四郎が逝去すると、1911年に三菱合資会社により買収され、
北海道の起業準備や炭鉱事業の調査を行う中心的役割を担う施設となりました。
建物の2階建て部分は、昭和12年ころに三菱鉱業セメント株式会社が付設したもので
大正、昭和初期の瀟洒な洋館のデザインを表している遺構。
建物は、同社の札幌寮として、邸宅部分はその貴賓室として使用され庭園とともに大切に保存されていました。
昭和61年に北海道有形文化財に指定されました
妻の呆れ顔をよそに
私はボランティアの説明員の方と1時間ばかし北海道の歴史について語っていました。
CANON G1X 2015.04.29 札幌
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1904年に永山武四郎が逝去すると、1911年に三菱合資会社により買収され、
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建物の2階建て部分は、昭和12年ころに三菱鉱業セメント株式会社が付設したもので
大正、昭和初期の瀟洒な洋館のデザインを表している遺構。
建物は、同社の札幌寮として、邸宅部分はその貴賓室として使用され庭園とともに大切に保存されていました。
昭和61年に北海道有形文化財に指定されました
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