ⅲ 臣籍降下後の復帰
宇多天皇
さて、宇多天皇は、皇室から離脱し一般貴族からの即位という前代未聞の継承だった。ただ、自らの子には皇位を継承させない意思を表明していた先代光孝天皇はすべての子供(26名)を源氏姓を与え臣籍降下させていた。自らの思い通り後継者を決めたい藤原の総帥基経への気遣いであった。その一人、源定省(さだみ、後の宇多天皇)は、以前、陽成天皇の時代には天皇の侍従をしていた。現在なら、宮家に生まれた男子が皇室を離脱(臣籍降下)して、民間人として宮内庁に一般職員として天皇や皇后の身辺にお仕えしていたところが、その後突然に天皇なったようなものである。従って、陽成上皇との関係は微妙で、『大鏡』には、陽成が宇多のことを、「あれはかつて私に仕えていた者ではないか」と嫌味を込めて言ったという逸話が残っている。しかもしばらくの間は、陽成が復位を画策しているというので宇多天皇周辺は警戒していたようだ。 いずれにしても、光孝・宇多の系統は本流となって行くわけで、現代の皇位継承問題には大きな示唆を与えている。
戦後の皇籍離脱
太平洋戦争終結時、GHQの指示により多くの宮家・皇族を臣籍から降下させた。現在では民間人だが、皇室の男系男子と言える血筋の方が何人かいらっしゃる。日本国憲法下に人格を持ち、婚姻・職業選択の自由は保証され、永く民間人として家庭を営み自らの思想信条をお持ちでおられる訳でその方たちの皇室復帰の議論は、多くのそのような問題を含むものの宇多天皇の事例を思えば、無視してはならない貴重な前例である。