逆順でたどる平安京の天皇たち
66代 一条天皇 宮廷文学の全盛期
元号 |
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先代 |
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次代 |
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誕生 |
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崩御 |
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陵所 |
円融寺北陵 |
諱 |
懐仁 |
別称 |
永延帝 |
父親 |
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母親 |
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皇后 |
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中宮 |
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女御 |
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子女 |
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皇居 |
一条院・東三条院・枇杷殿 |
一条天皇の御代は藤原家から見るのと、宮廷内の絢爛豪華なタレント達から見るのとでは全然違う。藤原摂関家は、長く不遇であった兼家の復権の時代である。娘の詮子が産んだ一条天皇の即位で状況が変化する。ただし、一条天皇の即位は先代花山天皇を陰謀で出家させた事で実現したのであった。
一条天皇の践祚は7歳であった。
その皇后として二人入内する。いずれも兼家の息子で、道隆の娘定子、道長の娘彰子であった。一条天皇の周辺は藤原家でがっちり固められていた。二人の皇后は、兄弟の代理戦争の様相を呈し、皇子誕生へ競争となる。しかし12歳で入内した彰子は受胎の可能性はなく、仲睦じい定子との間に男子が誕生する。
敦康親王だ。立太子するものの廃される不幸な皇子である。定子が早世すると道長は念のため敦康親王を、彰子のもとで養育させた。しかし道長の恐るべしは、彰子に男子が誕生するに及び敦康を見捨てる。
その後の皇位の継続の経緯は前回書いた。さて、定子と彰子は懐妊争いだけでなく、宮廷サロンでの文化的競争も行っていた。清少納言は定子の女御であったが、彰子には和泉式部、紫式部の他に、赤染衛門など多くのタレントを抱え文芸サロンを構築していた。その方面でも彰子の勝利であったかも知れない。ただし彰子の人柄は謙虚でしとやかな美人だったと伝わる。その人柄は一条天皇も同様で、下位の者に寒いからと自らの着衣を与えたこともあったと伝わる。微笑ましい時代だ。
女御たちも大変な時代だ。
次回は、いよいよ花山天皇。安倍清明も登場する。