② 源家と皇室
九郎判官義経
ここまでの源氏一族の推移を確認する。源平合戦において、実働部隊を率いて平家を滅亡に追いやったのは義経・範頼の兄弟である。特に、義経は時代のヒーローとなったが、兄頼朝の誤解を受けて奥羽平泉で討たれた。範頼も結果として猜疑心の強い頼朝の前には生き残れなかった。そして頼朝自身も急死する。その後は、足利幕府発足時の「観応の擾乱」以上の一族内の混乱が続く。まず、2代将軍頼家は独断専行が過ぎ御家人達に無理やり「合議制」とされる。それに不満を持った頼家は、自らの乳母の一族である比企氏を頼りに北条家と対立する。一方、父頼朝の弟(頼家には叔父)阿野全成が殺害される。遂には、頼家自身も北条一族を中心にした勢力に追われて殺される。3代将軍実朝も、頼家の遺児公暁により殺害され、その公暁も直後報復に遭い殺される。公暁の弟も後日共謀を疑われ殺されている。そしてその後、阿野全成の遺児時元が将軍の地位を狙い挙兵するが失敗し自殺する。その弟道暁も今後の憂いを絶つため北条氏に殺害される。お分かり頂けているかどうか、頼朝一族はここに根絶したのだ。八幡太郎義家を祖とする源家本流は根絶やしとなった。この間、北条政子は執権北条家の者とはいえ、実子を含む近親者をことごとく失いどんな思いだったのだろうか。幕府は、執権北条家の独裁に向けて突き進んで行った。
尼将軍 北条政子
一方、皇室(朝廷)は、後鳥羽上皇が治天の君として(親裁)独裁を始めると前項で書いたが、後鳥羽の長子土御門天皇は温和な性格で、後鳥羽とは反りが合わず、承久の乱においても消極的であったと伝わるが、実際は複雑な事情があった。土御門の実母の在子(後鳥羽妃)の母範子は藤原範兼の子で、後鳥羽の乳母であった。また、弟の順徳天皇の実母重子(後鳥羽妃)の母兼子も範兼の子で、こちらも後鳥羽の乳母であった。つまり後鳥羽の寵愛を受けた二人は従妹同士だった。ややこしいのは、在子の方は、母が寵愛を受けていた源通親と密通してしまう。(後鳥羽が土御門を嫌う決定的な要因か)この村上源氏の末裔の源道親は、高倉天皇の側近として世に出て来た人物で、従って、平家とも近しい関係を築くが、平家滅亡後は源氏にも後白河にも重用されるなど、一定の勢力に属さず上手く世渡りをしている。後白河上皇崩御後は、その最大の荘園を相続した宣陽門院の後見を勤めこの時期に一気に政治基盤を築いている。そのような折り、自ら面倒を見ていた在子が、後の土御門天皇になる皇子を生んだのだ。「外祖の号を借りて天下を独歩するの体なり」と言われ、「源博陸」と称され人生の絶頂を迎える。一方、頼朝上洛においては、頼朝の右近衛大将任官の上卿を務めるなど関東の歓心を買うこともしっかり行っている。このようにしたたかな通親は後鳥羽の妃である在子との肉体関係を疑われるものの、朝幕間の重し役でもあった。この源通親の死が、後鳥羽の強行策に転じる一つのきっかけとなった事は間違いない。
源 通親
以上、朝廷にも幕府にも不安定な要素が内在しているのが、鎌倉時代の初期の特殊性である。後世、我々は幕府が北条得宗家の支配になって行くことを知っているが、この時期どのような展開もあり得た混迷期であったことは間違いない。それにしても不倫・不貞・略奪・兄弟親子の殺し合いなど現代人には理解不能の世界だ。だから面白い。