逆順でたどる平安京の天皇たち
51代 平城天皇 平安京に反対した天皇
元号 |
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先代 |
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次代 |
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誕生 |
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崩御 |
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陵所 |
楊梅陵(やまもものみささぎ) |
別称 |
奈良帝 日本根子天推国高彦尊 |
父親 |
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母親 |
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皇后 |
藤原帯子(贈皇后) |
子女 |
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皇居 |
筆者の自宅は、奈良市の北部平城宮跡に近い。数年前大極殿が再建された。朱色の堂々たる再建場所から徒歩数分に御陵がある。「平城天皇陵」と書かれている。30年以上前に住むようになった頃は、平城京近くにある平城天皇陵だと何の違和感もなかった。しかし、平安京に遷都した桓武天皇の子がここに?それが大きな疑問に・・・。
さて、平城天皇と桓武天皇親子でこのシリーズが終わる。
まず、神皇正統記から目を通す。淡々と桓武天皇の第一皇子である事、皇位4年で弟嵯峨天皇に譲位した事。引退後平城宮に住んで居たこと。寵愛した藤原薬子と兄の仲成の勧めで平城遷都を目論み失敗した事。その後弘法大師のもと出家隠棲したことなどを書いているだけだ。まだ詳しい検証がなされていなかったのか、処刑された者の怨霊を恐れたか書きっぷりは控えめだ。
しかし、そこに複雑なドラマがあった。平城天皇の東宮時代、藤原薬子(女性)は自分の娘を妃として差し出したが、何と母である自分が平城天皇と深い中となったのだ。当時病弱に苦しんでいた平城天皇の相談相手として接している内に出来てしまったようだ。薬子には夫がいて5人の子もなしている。女子の年齢は記録がないが、兄の仲成が平城天皇の10歳上である事、薬子はその妹である事からすると薬子の娘はまだ平城の夜のお相手は無理だったのではないか。つまり最初から薬子自身がその事を目論んでいたのではないかと筆者は推察する。また、おそらく天皇の病気は気鬱であったと思われる。その証拠に、薬子に慰められた平城上皇は、譲位後病気が治り重祚(再び天皇になる事)を求めている。その結果大きな政変となったのだ。
冒頭紹介した平城天皇陵は「楊梅陵」と呼ばれるが、近年調査の結果、平城上皇の墓としては無理があるとされている。どこに葬られたのだろうか?
いよいよ最終。桓武天皇へ
読み通すには一頑張りが必要かも。
読めば日本史の盲点に気付くでしょう。
ネット小説も面白いです。