81代 安徳天皇 涙なしには語れない。
元号 | 治承 養和 寿永 元暦 |
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先代 | 高倉天皇 |
次代 | 後鳥羽天皇 |
誕生 | 1178年12月22日 |
崩御 | 1185年4月25日 壇ノ浦 |
陵所 | 阿彌陀寺陵 |
諱 | 言仁 |
別称 | 水天皇大神 |
父親 | 高倉天皇 |
母親 | 平徳子 |
皇居 | 大内裏・福原宮 |
筆者は歴史上もっとも不幸な天皇と認定する。平家物語は筆者のバイブルだ。吉川英治の新平家物語から始まり、あらゆる平家物語を読んできたが、作者や翻訳者の感情が最も入るのが「屋島・壇ノ浦」である。その中でも安徳天皇の入水場面は名文が登場する。文学者の腕の見せ所だ。そして筆者は必ず泣く。「安徳」という最大限の諡号を贈られた天皇はどんな思いだったか?安(安らかな)徳(徳を備えた)天皇だ。ご本人は悲しいかな生まれたと同時に皇太子になり、2歳で即位。ご自身の意志どころか記憶にも残っていなかったと想像する。
野山を駆けて遊んだこともなく。恋愛も結婚も無論女性も知らず。当然、政治の何たるかも知らず、平清盛その人に存在そのものを支配された短い、本当に短い一生だった。
祖父 清盛。
平家滅亡時の天皇は、平家の滅亡と共に瀬戸の海に入水した。
その悲劇の場面を再現する。天皇が移動中、一時的に御在所とするところを「行宮」という。一の谷・屋島を経て今は、壇ノ浦の海上「御座船」が行宮である。祖母二位尼(平時子)に抱きかかえられ最期を迎えていた。6歳になっていた天皇は、「どこに連れられるのか」と、問う。「君は前世の修行によって天子としてお生まれになられましたが、悪縁に引かれ、御運はもはや尽きてしまわれました。この世は辛く厭わしいところですから、極楽浄土という結構なところにお連れ申すのです」と、言い聞かし、涙ながらに、船上にて、伊勢神宮に向けて遥拝し、そして西方浄土の方に手を合わせ、二位尼が最後に「波の下にも都のそろう。」(波の下にも都がございます。)と、海に飛び込む。
歴史上ただ一人入水自殺さされた天皇である。
母の建礼門院は、長い髪の毛を源氏の兵に引っ掛けられ救われた。その後「大原御幸」により、後白河法皇に再開する。
また、安徳天皇は、平安京時代における唯一の遷都の詔を発した天皇だ。平城京~平安京そして東京へと都が遷る訳だが、この時一時福原京(神戸)に遷都している。勿論、清盛の政治的判断だが、後白河上皇も三種の神器と共に移っているので、立派な遷都である。
また、京の都を放棄した時に、後鳥羽天皇がすぐ即位しているので、平家滅亡による安徳入水までの2年間は、天皇が2名存在する異常な事態でもあった。
次も平家に翻弄された高倉天皇へ