逆順でたどる平安京の天皇たち
96代 後醍醐天皇 建武の親政
先帝 |
花園天皇 |
次帝 |
後村上天皇(南朝) |
生年~崩御 |
1288年11月26日~1339年9月19日 |
在位 |
1318年 3月29日~1339年9月18日 |
在位中年号 |
文保・元応・元亨・正中・嘉禄・元徳・元弘・建武・延元 |
御所 |
二条富小路・吉野行宮 |
御陵 |
塔尾陵 |
父・母 |
父 後宇多天皇 母 五辻忠子 |
とうとう中世最大の事件、「建武の親政」の主役、後醍醐天皇までたどり着いた。ここまで遡って来たが、逆順というルールを冒してここは、88代後嵯峨天皇からの皇位継承を見ないと、後醍醐天皇は理解できない。
88代 後嵯峨天皇から以降、
89代 後深草天皇(持明院統)
90代 亀山天皇(大覚寺統)
91代 後宇多天皇(大覚寺統)
92代 伏見天皇(持明院統)
93代 後伏見天皇(持明院統)
94代 後二条天皇(大覚寺統)
95代 花園天皇(持明院統)
96代 後醍醐天皇(大覚寺統)と、皇位を継承して来た。
持明院統(北朝へ)と大覚寺統(南朝へ)の分裂の経緯は今後に書くが、こうして見ると見事に平等に交互に継承は行われている。
すべてが鎌倉の執権北条家の裁きによって来た。次は、持明院統の天皇の番だ。
さらに、後醍醐天皇は繋ぎの天皇であって、実は、後二条天皇の皇子、邦良親王が皇位継承者だったのが、幼少であった為に、その成長までの繋ぎの天皇に指名されたのだ。
従って、後醍醐天皇は、自分の血統の親王に皇位継承させることが無い天皇だったのだ。結局二重の意味で皇位の継承は自分の意のままにならない状況にあった事が、まず大前提である。
一方、世情は困窮の極みにあった。後醍醐天皇即位の1318年前後に、鎌倉に2度、京都には4度の大地震の記録が残る。また毎年のように長雨の被害や台風の被害が書かれてある。「河合出書房」(日本史年表)
比叡山や東大寺の僧兵がしばしば神輿を奉じて直訴に及ぶが、幕府はすでに北条高時の時代で、政権能力はなかった。
京都周辺には、倒幕の機運が高まっていたのだ。
天皇親政の理想に燃える後醍醐天皇にとっては自分の血統に皇位を戻す為にも、やはり倒幕しか方法はなかった。
そして、正中の変を引き起こす。