「こうしたことのため、私たちはいつも、あなたがたのために祈っています。どうか私たちの神が、あなたがたを召しにふさわしい者にし、また御力によって、善を求めるあらゆる願いと、信仰から出た働きを実現してくださいますように。」(Ⅱテサロニケ1:11新改訳)
キリスト者を「召しにふさわしい者」と整えてくださるのは神ご自身であって、自己の努力や生まれつき持っている何かによるのではない。そうでなかったら、私たちは神のためにこれだけのことをしたと自慢し、栄光を自分に帰してしまうであろう。▼パウロはエペソ書でも、「神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました」(エペソ2:10同)と述べ、信仰者の生涯においてなされる「あらゆる良きわざ」の源が神にあることを明言している。そこで私たちが天に行ったとき、なすべきことは、「神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられる」(エペソ1:6同)こと、ただそれだけであろう。教会は地上でその準備をしているのである。▼「また私は、大群衆の声のような、大水のとどろきのような、激しい雷鳴のようなものがこう言うのを聞いた。『ハレルヤ。私たちの神である主、全能者が王となられた。私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。子羊の婚礼の時が来て、花嫁は用意ができたのだから。花嫁は、輝くきよい亜麻布をまとうことが許された。その亜麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。』御使いは私に、『子羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ、と書き記しなさい』と言い、また『これらは神の真実なことばである』と言った。」(黙示録19:6~9同)