しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <神の力によって>

2024-08-17 | Ⅱコリント
「キリストは弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対しては、神の力によってキリストとともに生きるのです。」(Ⅱコリント13:4新改訳)

キリストは弱さのゆえに十字架につけられました、とパウロが言うのは、主が無力だったということではない。万民のあがないのため、ご自分を犠牲の小羊として十字架に差し出された事実をいうのである。▼もし主がそのように従順であられなかったら、罪の解決は永遠にあり得ず、私たちはほろびに行くしかなかった。つまり、キリストの弱さとは私たちに対する愛の強さの逆表現である。「父よ彼らをおゆるしください」と、鮮血(せんけつ)に染(そ)みながら祈られた主イエスに、計り知れない神のご愛の強さをおぼえ、ひれ伏すことが私たちにできるすべてである。そのとき、人ははじめてキリストと共に神の力によって生きるという、復活の世界を体験する。▼この世的な力と強さは、圧倒的に見えても、いずれは消滅(しょうめつ)し、消え去っていくものでしかないのだから。「人はみな草のよう。その栄えはみな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは永遠に立つ」(Ⅰペテロ1:24,25同)

朝の露 <三度の祈り>

2024-08-16 | Ⅱコリント
「この使いについて、私から去らせてくださるようにと、私は三度、主に願いました。」(Ⅱコリント12:8新改訳)

パウロはどのようなキリスト者も行ったことのないパラダイスに連れて行かれ、今まで経験したことのない天の世界を見せられた。▼彼の経験からすれば、私たち一般のキリスト者は広大無辺(こうだいむへん)の霊界を知るべきほども知らないことがわかる。おそらく宣教の過程(かてい)で、あまりにもきびしい状況下に置かれたパウロをなぐさめ励(はげ)ますために、神はそのような体験をお与えになったのであろう。▼そんな彼が高ぶり、自己の体験を誇(ほこ)らないようにと、神は一つの病気をパウロに与えた。これもまた、なんと深い神のご配慮(はいりょ)であろう。そして、人間の弱さはいかに想像できないほど大きなものなのか。あまりにもつらいので、彼は何度も(三度というのは何回もという意味にちがいない)癒(いや)して下さいと主に祈ったが、主は拒否(きょひ)された。それは彼に対する愛と恵みのゆえであった。▼私たちも病気や不幸に会ったからといって、主に不平を言ったり、こぼしたりしてはならない。そこには理解をはるかに超えた主のご愛と計画があると信じ、かえって感謝すべきである。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになる。」(ヨハネ13:7同)

朝の露 <パウロの伝道生涯>

2024-08-10 | Ⅱコリント
「ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、一昼夜、海上を漂ったこともあります。何度も旅をし、川の難、盗賊の難、同胞から受ける難、異邦人から受ける難、町での難、荒野での難、海上の難、偽兄弟による難にあい、労し苦しみ、たびたび眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さの中に裸でいたこともありました。ほかにもいろいろなことがありますが、さらに、日々私に重荷となっている、すべての教会への心づかいがあります。」(Ⅱコリント11:24~28新改訳)

パウロの伝道生涯は「言語に絶する困難さ」に満ちていたが、ここにその一端(いったん)が述べられている。これを読んだ人は、だれでも思わず息をのむであろう。パウロは誰からも賞賛されず、誰からも評価されず、その上、誰からも謝礼らしい謝礼も受け取らず、進んでこの困難の渦中に生きた人であった。▼いったい何が彼をこのように走らせたのであろうか。それはたった一つ、キリストのご愛であった。パウロにとり、主の愛はただの観念や机上(きじょう)の空論ではなく、生きた現実であった。教会を破壊し、多くの真面目な信仰者たちを苦しめ、死に至らせた彼は、そのままでは万死(ばんし)に値し、まっすぐ永遠のゲヘナに落ちて当然の悪人だった。ところがその彼をキリストは無条件でおゆるしになったのだ。それどころか福音を伝える全権大使として任命し、世界に派遣されたのである。この信頼を思い、彼は狂わんばかりになった。キリストのために自分を焼き尽くさなければ災いだと。「私が福音を宣べ伝えても、私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないのです。福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。」(Ⅰコリント9:16同)

朝の露 <私たちの武器>

2024-08-09 | Ⅱコリント
「私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神のために要塞(ようさい)を打ち倒す力があるものです。」(Ⅱコリント10:4新改訳)

ここから13章までは、パウロを批判するコリント教会への弁明で、彼がどんなに誠実、率直(そっちょく)に行動してきたかをありのまま告白した箇所。▼彼は自分を使徒へと召されたキリストのために、忠実な働きを続けた。その生涯は自分を飾(かざ)らず、人に何を言われようと意に介(かい)さず、ただ聖霊の力によって福音を宣べ伝えて来たのであり、生まれつき持っている「肉の力」などに頼って来たのではない。大体、私が宣教の武器としているのは神から与えられた天来の力であり、要塞すら打ち倒す力を持っている。コリント教会の皆さん、そのことを理解してほしい・・・パウロはそう主張してやまない。▼それから二千年、使徒が伝えた福音はローマ帝国を倒し、続いてヨーロッパからアジア、アフリカ、全米に広がり、まもなく世界に満ちようとしている。要塞どころか全世界が一人の信仰者に打ち倒されようとしているこの歴史の現実を見よ。コリントの信者たちがあなどったひとりの老使徒が、キリストにより世界を制覇(せいは)しつつある。イエス・キリストが天からふたたびおいでになるとき、世界はパウロの言っていたことが正しかったことを知るであろう。▼「主が立ち上がり、地をおびやかすとき、人々は主の恐るべき御顔を、その威光(いこう)のかがやきを避けて、岩のほら穴や土の穴に入る。その日、人は、自分が拝むために造った銀のいつわりの神々と金のいつわりの神々を、もぐらや、こうもりに投げやる。主が立ち上がり、地をおびやかすとき、人々は、主の恐るべき御顔を、その威光(いこう)のかがやきを避けて、岩の割れ目や、巌(いわお)の裂け目に入る。」(イザヤ2:19~21同)

朝の露 <教会は一つ>

2024-08-03 | Ⅱコリント
「そして彼らは、あなたがたのために祈るとき、あなたがたに与えられた、神のこの上なく豊かな恵みのゆえに、あなたがたを慕うようになります。」(Ⅱコリント9:14新改訳)

エルサレム教会は、最初、異邦人が自分たちと同じように救われ、神の国の相続人となることなどありえないと思っていた。▼ところがサマリア人が救われ、ローマ人コルネリウス一家が救われ、アンティオキア教会が形成され、そこから世界へ宣教師たちが派遣されて、みるみるうちにローマ帝国内に民族を問わずキリスト教会が増えていった。それでも半信半疑だったユダヤ人キリスト者たちは少なくなかったろう。▼ところが実際はどうか。パウロたちが宣教によって作り上げた異邦人教会から、洪水のように支援の献金がエルサレムに集まって来たのである。交通も困難な当時の世界、それをものともせず、忠実な兄弟たちが諸教会から遠路はるばるエルサレムに義援金(ぎえんきん)を届けに来たのであった。こうして愛による感謝の交わりが世界の教会を一つにしていく、それこそパウロが描いた夢の実現だった。▼「われは天地の造りぬし、全能の父なる神を信ず。われはそのひとり子、われらの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、よみにくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来りて生ける者と死にたる者とをさばきたまわん。われは聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、とこしえのいのちを信ず」アーメン